【後編】摂津晴門は何者?『麒麟がくる』で描かれない生涯を徹底調査!
2023/09/09
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。
また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
【前編】摂津晴門は何者?『麒麟がくる』で描かれない生涯を徹底調査!で摂津晴門の特徴を紹介しました。
出自(先祖から室町時代までの摂津氏)や、幕府内での仕事の内容、実は「政所頭人」の家系ではなかったことや伊勢氏が代々「政所頭人」を世襲していたことなど紹介しました。
こちらでは、摂津晴門がどのような人生を送ったのか略歴と共に追ってみたいと思います。
その中でなぜドラマで「悪人」として描かれないといけないのか?についても考えてみます。
また、摂津晴門がどのような人物だったのかを少ない資料を手がかりに推測していきたいと思います。
略歴から晴門の人生を見る
摂津晴門の一生を史料に残る情報から時系列に沿って紹介したいと思います。より理解できるよう周辺の出来事も補足しながら紹介します。『麒麟がくる』に登場するタイミングは人生のどのあたりだったのかもわかると思います。
1500〜1521年
摂津晴門誕生。父は摂津元造(足利義晴家臣)
元造の養女が後の13代将軍足利義輝の乳母を務める=晴門は義輝の義理の伯父に当たる
摂津晴門の「晴」は12代将軍義晴から一字を拝領している=摂津家と足利義晴・義輝の関係は厚い
1528年
12代将軍義晴から「従五位下中務大輔」に任ぜられる。(貴族以上を意味するのでそこそこ高い位)
1546年
足利義輝が13代将軍宣下を受け、義晴が後見人となる
1550年
義晴病没。元造も従って出家するが晴門を補佐に職務を維持(官途奉行・地方頭人・神宮方頭人※【前編】で解説)
出家する直前に「従三位」に叙せられる。「従三位」は、足利一門や大大名しか得られない高貴な位。政所頭人の伊勢氏でも従四位下止まりだった。→摂津家がそれだけ足利家に大きな期待を寄せられた証?
義晴を継いだ義輝は、家臣・大名に牛耳られる幕府を破壊し足利家親政を目指したため以降様々な摩擦を生んでいく。
1553年
晴門に嫡男糸千代丸が誕生
1562年頃
父元造が死去。職務は晴門が引き継ぐ
1562年
義輝が政所頭人の伊勢貞孝・貞良親子を更迭。貞孝らは三好長慶・松永久秀と戦に及ぶも討死する。
1562年
足利義輝により摂津晴門が政所頭人に就任!義輝のもと幕府親政を進める
→親政に反対する三好氏と水面下で対立が深まる。
1564年
三好長慶死去。義輝が親政に向けさらにアクセルを踏む
1565年
永禄の変。親政に危機感を持った三好義継(長慶の後継者)・松永久秀が足利家別系の義栄を立てて将軍に据えようと画策するも朝廷に拒否されたため、その後二条御所を急襲して義輝を殺害した事件。晴門の嫡男千代丸も討死してしまう。
義輝の弟の覚慶(後の足利義昭)は久秀に幽閉されその後越前へと逃れる。
京都は次の将軍候補として足利義栄を担いだ三好氏が牛耳る。
1566年
三好氏により伊勢貞為(貞孝の孫)が政所頭人に復帰、晴門は反発し越前の覚慶(義秋)の元へ逃れる
1568年
足利義栄が14代将軍宣下を受ける。晴門は式への出席を拒絶
1568年
晴門が義秋(覚慶)の元服の奉行を務める。義秋は義昭と名乗る。
1568年
足利義栄病没
1568年『麒麟がくる』ではここから登場!
織田信長の支援の元15代将軍に義昭が就任。晴門が政所頭人に復帰。
1568〜1571年
晴門は政所頭人として働いた(『言継卿記』)
信長から義昭に「殿中御掟」が出され承認されている(義昭を傀儡にするための条文と言われるが、実際は室町幕府の規範や先例を吟味し正常な幕府運営ができるよう示した条文だった。義昭の恣意的な政治判断で起こす問題を統制する条文もある)
1571年
義昭により逼塞を命じられる!
神宮方頭人を兼務していた晴門が、伊勢神宮祭主(トップ)の藤波康忠に相談なく神宮の神職人事の武家執奏(天皇へ要請)を行ったため、義昭が激怒し逼塞(昼間の外出を禁止)となる。
政所頭人の後任に伊勢貞興(貞孝の孫)が任命される。8歳だったため織田信長が執事代行を行なった
1572年
義昭の命で朝廷の使者を務めた(『御湯殿上日記』※御所に使える女官等が書き綴った日記)
以上が略歴で、それ以降歴史には出てこないため、その後引退したとも、死亡したとも言われますが不明です
嫡男も失くしてしまっていることから摂津家嫡流は断絶しました。
信長「倍返しだ!!」
上記の略歴から『麒麟がくる』に関連して窺えることは以下です。
※追記:12/6放送(「第35回」)で、晴門は光秀暗殺未遂により失脚に追い込まれました。以下の内容はそれ以前に書いたものですのでご了承ください。)
・ドラマで登場するのは「政所頭人」に復帰した1568年のシーンから
・登場時の年齢は60歳前後と推測でき晩年からの登場
・悪人「摂津晴門」はわずか4年で失脚する=失態は自ら招いた?
・晴門から「政所頭人」を引き継いだのは実質織田信長=晴門を失脚させるための信長の謀略だった??
失脚の原因を「信長の謀略」と仮定すると、『半沢直樹』のような勧善懲悪な物語になります。
信長(染谷将太さん)が「倍返しだ!」とは叫ばないでしょうが、そんな感情が推測できます笑
・さらに、視聴者の「爽快感」を高めるため、摂津晴門(片岡鶴太郎さん)の悪人の演技を極端に際立たせているのではないでしょうか?表情も歌舞伎役者みたいですもんね。
摂津晴門は結局どこを目指した人だったのか?
史実の摂津晴門について考えみたいと思います。
晴門は、何を目指して人生を駆け抜けたのでしょうか?
摂津氏は名門であり高級官僚の家系でした。
将軍義輝や義昭からも信頼されたにも関わらず、まさか自分の代で家系が断絶。
人生が急降下したのは明らかに足利義昭の「政所頭人」だったタイミングです。
【前編】で紹介したように「政所頭人」は「伊勢氏」が世襲しており、その権威は絶大だった訳です。
実は摂津晴門もそんな絶大な権力者の「伊勢氏」に自身を重ねていたのではないかと思うのです。
勝手に伊勢神宮に関する武家執奏を行ったことは、藤波康忠のみならず君主であり将軍の義昭を飛び越えた行為で、義昭を軽んじ無視した行為だったわけです。(※織田家の讒言の可能性もあり)
このような「軽んじた行為」は「政所頭人」だった伊勢氏とも共通しましす。
それは、足利義輝が伊勢貞孝を更迭した理由。1つは、幕府を支配できる「政所頭人」の立場に執着し、家臣としての立場を軽んじたこと、もう1つは幕府法を無視して勝手に徳政免除を出していたことです。
このため義輝の怒りを買って伊勢氏貞孝は更迭されました。
摂津晴門と伊勢貞孝は似た行為に見えます。
結局、摂津晴門は「政所頭人になって伊勢氏のように幕府を支配したかった」のではないか思います。
『麒麟がくる』の晴門ほど「悪人」ぶりを発揮していたかは不明ですが、少なからずも「幕府を牛耳って我がもの同然」の振る舞いがあったのではないかと推測します。
以上、摂津晴門について紹介しました。
『信長の野望 新生』で摂津晴門がシリーズ史上初登場を果たしましたね!おめでたい!
足利家でプレイされる方にもお役に立てられたら幸いです。
※【前編】はこちらから参照ください。
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