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『逆井城』の歴史を知ろう!ー関東戦国時代と北条氏に翻弄されたお城とは?ー

 
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
前記事では、戦国時代の城跡『逆井城(さかさいじょう)』の魅力をご紹介しましたが、本記事では、『逆井城』の「歴史」をご紹介します。
「城跡に行ってもすぐ飽きちゃうかも?」という方にもおすすめです!
歴史を知ってから訪れることで、風景にリアリティが生まれ、感動が生まれます!
「歴史は苦手だっ!」という方も多いと思いますが、なるべく分かりやすく説明しますので、ざっくりでも結構ですので是非「歴史」を知ってから「逆井城」を訪ねてみてください!
この記事が皆様の旅の一助になれたら嬉しく思います。
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ざっくり!『逆井城』の歴史とは?ー

まずは、逆井城跡公園の案内板などに記載されている「逆井城の概要」から紹介します。
何となく流れをご覧ください。
 
【概要】
享徳年間(1452-1455年)、逆井常宗が下総国猿島郡(現在の茨城県坂東市逆井)に『逆井城』を築城
1536年、逆井常宗の孫・常繁の代に北条氏(大将:大道寺盛昌)に攻められ落城、逆井氏滅亡
1577年、城主・北条氏繁が、敵対勢力を牽制すべく大規模な城郭整備を行う
1578年、北条氏繁死去、子の氏舜・氏勝兄弟が継ぐ
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡し逆井城も廃城
 
ちょっとざっくりすぎ、、。
上記を理解するには、関東における「時代背景」と「勢力関係」が必要です。以下から補足していきたいと思います。

『逆井城』築城時の時代背景とは?ー関東が戦国時代に突入!ー

「逆井城」は享徳年間(1452-1455年)〜天正18年(1590年)の約135年間存在した城で「戦国時代真っ只中」を生き抜く城になります。
 
その「逆井城」の「築城」から始めましょう。
いきなりですが「享徳年間」に関東で大事件が起こります。
 
『享徳の乱』(1455-1483年)です。
 
鎌倉公方の「足利成氏(あしかがしげうじ)」が関東管領の「上杉憲忠」を暗殺する事件が起き、これをきっかけにその後約30年間、関東が戦乱の地と化してしまいます。この乱は「戦国時代の幕開け」とも言われます。
関東の諸勢力は「足利成氏」方と「山内上杉氏・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏」方に分断、また室町幕府の介入も絡みながら各地で戦が繰り広げられます。
 
享徳の乱

『享徳の乱』の頃の勢力図

 
【補足】「鎌倉公方」と「関東管領」とは
「鎌倉公方」=室町幕府は全国全てを統治・管理できないため、関東の統治府として鎌倉の地に「鎌倉府」を置きました。その長官は室町幕府将軍家血筋の「足利氏が代々世襲」。足利成氏は5代目です。
「関東管領」=鎌倉府長官の補佐役で、「鎌倉公方」ナンバー2です。こちらも幕府に仕える上杉家が代々世襲。ちなみに山内上杉氏と扇谷上杉氏は同族で一時対立する時期もありますが戦国時代通して概ね味方同士です。
 
「逆井城」はつまり、戦国時代の幕開けと同時期に建てられた運命的な城だったわけです。
このことからも「逆井城の築城」は『享徳の乱』に連動していたのではないか?と思えます。

『逆井城』が築城された理由とは?

ちょっとここで、逆井城の築城の「享徳年間」が「実際いつ頃で何のために作られたのか?」という部分を深掘りします。
 
結論としては、『享徳の乱』において足利成氏が対上杉氏側への防衛戦として築城したと考えられます。
 
成氏は当初、連戦連勝で常陸国や下野国まで遠征していきます(1455年)。しかしその隙に「鎌倉」が今川氏によって占拠されてしまいます!戻れなくなった成氏は新たに「古河城」を本拠地としました(以降「古河公方」と呼ばれる)。
 
なぜ「古河の地」だったかというと、利根川や渡瀬川が天然の要害となり敵の上杉氏の侵攻を阻む地形だったこと、小山氏や結城氏、梁田氏、佐々木氏、野田氏など周囲に味方する勢力が多かったことなどが挙げられます。
 
とは言え、守るための城を増やす必要があったため付近に「関宿城」や「菖蒲城」などを築城し、「古河城」も修復整備を行っています。
 
まさにこういうタイミングで「逆井城」も築城されたのではと推測します。
 
 
「逆井城」の地は、北側に幅1km・長さ50mの飯沼があり敵を牽制するには最適な天然の要害でもありました。そして成氏に味方する小山氏の「小山常宗」が(「逆井常宗」を名乗り)築城して城主となった、と考えるのが自然ではないでしょうか。
 
こんなイメージを持って実際訪れてみると、「なるほど、ここで古河公方の味方の逆井常宗が北側の飯沼を意識して城を建てたんだな。」と体感できるかも知れません。
 
さて、次はいよいよ本格的な戦国時代を迎え、北条氏の全盛時代と逆井城の行く末を紹介したいと思います。

『逆井城』の時代背景とは?ー北条氏、戦国時代の大大名へ爆進!ー

『享徳の乱』は、1483年に和睦が成立し一時関東に平穏が訪れます。
 
しかしそれも束の間、本格的な戦国時代に突入していきます!
 
『享徳の乱』の後、関東で山内上杉氏と扇谷上杉氏の内乱(長享の乱・1487-1505)や、古河公方と山内上杉氏と複数勢力の内乱(永正の乱・1506-1518)が勃発。周辺諸勢力らも同族で争うはめとなり、関東はまたしても泥沼と化します!
 
そんな状況下、伊豆国では「堀越公方」(新しい関東統治府として派遣されていた)を滅亡させた伊勢宗瑞(北条早雲)が現れ、相模国、武蔵国へ勢力を伸ばしていきます。上杉氏や古河公方らとも激突していくことになりますが、北条氏は約100年、5代をかけて関東一円を支配する戦国時代の大大名へと成長を遂げます(1493-1590)。
 
北条氏康

北条氏3代目当主「北条氏康」

 
ところがその後、西日本で既に全国を収めるほど大勢力となっていた豊臣秀吉と対立。1590年、ついに豊臣秀吉が北条氏討伐のために関東へ出兵。関東の北条氏方はあっという間に一掃され、ついに北条氏も小田原城で滅亡してしまいました(「小田原征伐」)。関東で約135年続いた勢力争いは豊臣秀吉によってわずか1年で平定されました!
余談ですが、映画『のぼうの城』はこの時唯一、豊臣方を跳ね退けた忍城城主「成田長親」を描いた物語です。
 
以上が「逆井城」が存在していた約135年間の時代背景となります。
前期は「足利公方や山内上杉氏の戦い」、中期は「同族同士の戦い+北条氏の台頭」、後期は「北条氏の関東支配と滅亡」といったように捉えると分かりやすいかも知れません。
 
では、これらの時代背景を踏まえ「逆井城の落城」に注目します。

「逆井城の落城」は「1536年」ではない疑惑?!

「逆井城」の落城についてみてみましょう。
【概要】では「1536年、逆井常宗の孫・常繁の代に北条氏(大将:大道寺盛昌)に攻められ落城、逆井氏滅亡」と記載されています。
 
以上!、、と言いたいところですが、実は「1536年」という時期について「年代的な矛盾」が指摘されているので、ここでまた深掘りして考えてみたいと思います。
 
そもそも「1536年」の関東はどんな状況だったのでしょう?
下記の勢力図をご覧ください。
 
1536年頃の勢力図

1536年頃の勢力図

 
勢力関係について
■北条氏
伊豆国、相模国〜武蔵国南部(江戸城)を支配→「逆井城」までは距離が離れている
■古河公方
「逆井城」含む「古河城」周辺を支配
■上杉氏(山内・扇谷(山内従属))
武蔵国、上野国を支配 
 
敵対関係について
■「古河公方」と「小弓公方」が敵対
※「小弓公方」とは、「永正の乱」(足利政氏VS子・高基の争い)の混乱に乗じて、足利義明(高基の弟)が下総国小弓城で独立。小弓公方を自称する新勢力です。
■古河公方の味方
小田氏・千葉氏。小山氏・宇都宮氏は内乱中。北条氏とはまだ対立していない。
■小弓公方の味方
真里谷武田氏(上総国)・里見氏・扇谷上杉氏。北条氏とは敵視の関係。
■北条氏の敵=扇谷上杉氏(・山内上杉氏)、甲斐武田氏、(小弓公方)
という状況です。つまり、
 
・北条氏の勢力がまだ相模国や江戸城付近までしか及んでいない
・北条氏と古河公方が対立していない
・北条氏の目下の敵は「扇谷上杉氏」で「古河公方」ではなく、また古河公方も目下の敵が「小弓公方」である
 
以上より、
1536年に北条氏が、古河公方方の「逆井城」を落城させた、とは考えづらい
と考えられます。

「逆井城の落城」は結局戦国時代のいつなのか?

上記を踏まえると「逆井城」が落城するのは、「北条氏と古河公方が敵対関係」にあり「領地を接している」状況です。
 
実際、そのような時期があります。
それが1569-1576年ころ。
 
当時北条氏は、山内上杉氏の援軍として度々関東に乗り込んでくる上杉謙信(越後上杉氏)に苦しめられていましたが、1569年に同盟が成立し(越相同盟)、心置きなく古河公方に攻め込む時期に当たります。
 
北条氏は、古河公方方の「関宿城」や「栗橋城」、「水海城」、「小山城」などを次々に陥落させ、「古河城」も陥落させています。つまりこの時期に「逆井城」も陥落したのではないかと思います。
 
新しく城主になった北条氏繁は、1577年に敵対する佐竹氏や結城氏、宇都宮氏などを牽制すべく城郭の拡張整備を行いますが、年代的にも合致しています。同時期に「古河城」や「小山城」なども同様に拡張整備しています。
 
「逆井城跡」には「古城」と言われる元々逆井常宗が建てた城とは別に、氏繁が拡張整備した城郭がありありと残っています。詳しくは前記事で紹介していますが、「古河公方を滅亡させる一環で落城させた城」、「まだまだ抵抗勢力都として強い勢力を牽制するため氏繁が拡張整備した城郭」という点を意識して訪れると、より戦国時代のリアルな体感ができるのではないでしょうか。
 
ちなみにこれを前提とすると「逆井城」攻めを行った武将は「大道寺盛昌」ではなく(1556年に死去)、孫の川越城主「大道寺政繁」の可能性があります。
 
そんな「逆井城」も前述の「小田原征伐」によって北条氏が滅亡し、同時に「廃城」となりました。既に秀吉に恭順していた佐竹氏や結城氏などに向けて防衛拠点として不要の城になったからでしょう。

まとめ

以上が、「逆井城」の歴史的背景です。
それでは、冒頭の【概要】を振り返りたいと思います。
 
■享徳年間(1452-1455年)、逆井常宗が下総国に『逆井城』を築城
→『享徳の乱』がきっかけで築城された可能性あり(足利成氏の味方「小山常宗(逆井常宗を名乗る)」が対上杉氏への防衛拠点として築城)
→関東が戦国時代に突入!(『享徳の乱』(1455-1483)→『長享の乱』(1487-1505)→『永正の乱』(1506-1518)
→北条氏の台頭と関東への進出
■1536年、逆井常宗の孫・常繁の代に北条氏(大将:大道寺盛昌)に攻められ落城、逆井氏滅亡
→落城の年代に矛盾あり?実際は北条氏が古河公方を本格的に攻める1569-1576年頃に落城か
→北条氏関東進出。上杉氏(山内・扇谷)や小弓公方、古河公方などと戦いながら勢力を伸ばす
■1577年、城主・北条氏繁が、敵対勢力を牽制すべく大規模な城郭整備を行う
→北条氏は敵対する佐竹氏や宇都宮市などを牽制すべく「古河城」や「小山城」なども城郭整備
■1578年、北条氏繁死去、子の氏舜・氏勝兄弟が継ぐ
■1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡し逆井城も廃城
 
歴史の不明点もあって筆者の推測も含みますが、「逆井城」の時代背景はこのような状況です。
一言で言うと、「逆井城」は戦国時代真っ只中に存在した城(1455-1590年)で、戦国時代のために作られて壊された城と言えます。
 
関東の戦国時代はなかなか複雑ですが、ざっくりとでも「逆井城の歴史」を理解頂けましたら幸いです。今回ご紹介させて頂いた内容が『逆井城』を訪れる際の一助となれましたら嬉しいです。
 
こちらは今回ご紹介した関東戦国時代における山内上杉氏や北条氏邦らの主要拠点だった「鉢形城」を紹介しています。
こちらも同様に、扇谷上杉氏や北条氏の主要拠点だった「川越城」を紹介しています。
こちらは「逆井城」から程近い場所にある「平将門の胴塚」を紹介。ドライブのルートに盛り込んではいかがでしょう?
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!

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