明智光秀の性格を暴く!愕然!本能寺の変につながる本性とは!?
2023/03/25
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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で明智光秀が脚光浴びてますね!
明智光秀といえば本能寺の変。
突如として主君織田信長を襲って殺してしまいましたが、その動機は未だ謎に包まれたままです。
ここでは諸説についての紹介は割愛しますが、光秀の性格を史料から読み取って、性格から謀反の動機を考えてみたいと思います!
実は光秀の性格が驚くべきものだったので紹介したいと思った次第です。
目次
明智光秀の性格がわかる史料とは?
明智光秀の性格を知るには、史料として評価の高い『日本史』があります。
『日本史』の著者は、戦国時代に織田信長からキリスト教の布教を許されたイエズス会宣教師のルイス・フロイス(1532〜1592)です。フロイス の『日本史』には明智光秀が何度も登場しており、その性格や指向などが記録された貴重な史料です。
ただフロイスが光秀を敵視又は恐れていたようで、光秀に対してかなり偏った書き方がされています。
とは言え、その偏見を差し引いたとしても驚くべき性格を伝えており、筆者は光秀に対するイメージが大きく変わりました。
そのために「本能寺の変」に至った経緯も「性格や指向」からアプローチしていくと別の考えができるのではないかと思います。
それでは早速『日本史』に記録された光秀像に迫ってみましょう!
本性は狡猾な光秀
フロイス は光秀についてこのように紹介しています。
(※以下引用は「日本史(ルイス・フロイス /松田毅一・川崎桃太 翻訳)による。)
信長の宮廷に十兵衛光秀殿と称する人物がいた。その才略、思慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内にあっては彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快く思われていなかったが、寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
この内容から光秀は、目的を達成するための計算高い頭脳とずる賢さ、そして能弁さを備えていた人物と言えそうです。
光秀は家臣になった時からすでに、家臣団トップに上り詰め一大勢力を誇ることを見据えており、そのためには武功(実績)を積み上げることと同時に信長からの寵愛を受け続けることが彼の中でアイデンティティになっていたのだと思います。
光秀の野望(よく言えば大志)です。
また、外様の光秀が信長に寵愛を受ければ当然「ほとんど全ての」譜代家臣は嫉妬し「快く思わなかった」のだと推測します。
陰湿な性格?裏切りや密会を好む光秀
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた熟練の士を使いこなしていた。
裏切り、密会、残酷、独裁、偽装、謀略、計略、策謀、、、
これだけ並ぶと常人では思いもつかない謀略を繰り広げて信長の領地拡大と自身の野望を叶えて行ったのではないかと推測します。
そう考えると、それを物語る事件がいくつか浮かび上がってきます。
こちらでは事件の詳細は省きますが、実際に光秀が黒幕ではなかったか?と囁かれている説があります。
1つは「荒木村重の謀反」で、もう1つは「重臣佐久間信盛父子の追放」です。
2つとも信長の苛烈で冷酷な仕打ちがクローズアップされている事件ですが、実は裏で光秀が謀略を行い2人を排除したのではないかと思うのです。
この2人に共通する点は「光秀の畿内制覇における巨大なライバル」です。
光秀の性格を考えると十分あり得るのではないかと思います。
もし興味がありましたら下記のリンクから参照してください。
荒木村重の謀反はこちら→『荒木村重の謀反の理由?謀略家明智光秀の暗躍を考える』
謀略に精通しない信長を騙す光秀
彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず (中略)、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことにがないように心がけ、彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らはそうでないと装う必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。(中略)また友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついにはこのような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略に精通していない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、信長は彼を丹波、丹後2カ国の国主に取り立て、信長が既に破壊した比叡山の延暦寺の全収入とともに彼に与えるに至った。
ここからわかることは、上記(『信長に狡猾に取り入る光秀』)で述べた内容がより詳しく言及されていることです。
家臣団のトップ争いに苛烈なほど執着しており、ライバルを蹴落としてでも信長の寵愛を受け続ける姿勢が伝わってきます。
そして信長を喜ばすための高いアンテナと情報収集力、行動力があったことがわかります。
信長に対して涙する演技は、信長の情に訴えます。光秀は演技で信長をコントロールしていたのかもしれません。
ただ信長をコントロールできていない逸話もあります。
信長が武田家を滅し家臣らが集った時、光秀が「我らが苦労した甲斐があった」と信長にお祝いの言葉を述べたところ、信長は「おのれは何の功があったのか」と激怒して、光秀の頭を打ち付け、光秀は血相を変えたという逸話が残っています。光秀が寵愛されている内容ではまるでないですね。
信長と反りが合わなくなる逸話は他にもあるため、全部が全部作り話ではないと思います。
晩年に近づき何か歯車が狂い始めていたのかもしれません。
また、光秀の72の方法は具体的に分かりませんが謀略家としての自身の才能に心酔していたのでしょうか。自分の計略が成功し周りをコントロールできる自負があったのかもしれません。
それは敵だけに限らず、信長や家臣らに対してもです。
安土城に次ぐ豪壮華麗な坂本城
「日本史」によると光秀は坂本(滋賀県大津市)に城を築きますが、それは「安土城に次ぎ豪壮華麗な城で天下に有名だった」と記録させています。
敵の多い琵琶湖周辺の平定を目的に1572年に築城されており、光秀にとっては家臣団にあってライバルが多い時期です。その中で内外共に「明智光秀」という武威と経済力を示すために「豪壮華麗」な坂本城を築城したのかも知れません。
信長の足蹴りから考える光秀の本性
(徳川家康などを安土城に招き饗応する)準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ案件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴りにしたということである。だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したのかもしれぬし、あるいはその過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかも知れない。ともかく彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な時期をひたすら窺っていたのである。
この「足蹴り事件」は「怨恨説」では有名なシーンでドラマでもよく見ます。『麒麟がくる』でも取り上げられることでしょう。
ただ、ここにあるように密室の事件だったようです。民衆にバレてはいませんがフロイス が知っているということは有力家臣たちには広まっていたと思います。
そしてフロイス は本能寺の変を振り返って、「光秀は利欲と野心が募ってわざと足蹴りにされそれを謀反の根拠として演出したのかもしれない」と推測しています。当時信長は自らを神として神格化させるに至っており、恐れるものがない彼の提案に光秀が正論で押し留めようとしました。これは家臣団にも支持される行為であり、足蹴りにされた事実から同情をも引き出せると計算していたのかも知れません。
いずれにしても誉高い家康接待の任務は即座に解かれ、羽柴秀吉の援軍を命令されるのでした。
そしてこの事件のわずか3週間後に本能寺の変が起こります。
また文書からは、フロイスも「光秀の謀反の理由」が分かっていないことが読み取れます。光秀が「天下の主になること」を「胸中深く秘めながら」本能寺の変を起こしたのなら、「本能寺の変動機説」は光秀にしか分かりません、、。
とは言え、「利欲や野心を持つ光秀」と「信長の暴走」は宿命のように絡み合って運命を共にしていきます。
本能寺の変直後に光秀が書いた手紙には「信長父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候」(『武家事紀』)とあります。
平安時代の「平将門」は、国司の暴走によって苦しむ役人や民衆に担がれましたが、光秀は自発的に反乱を起こしました。将門はみんなに「頼られて断れないタイプ」、光秀は「利欲と野心を持ったタイプ」。時代は違いますが、同じ反乱でも「性格」で経緯や行動が異なるのが面白いです。(※将門については別記事でまとめています)
脱線しましたが、例は以上です。
これまで知られざる光秀の性格を発見しながら、信長との関係について考えてきました。個人的に『本能寺の変』は、「光秀野望説」が柱ですが「信長非道阻止説」や「怨恨説」など掛け合わせたものが原因ではないかと推測しています。
※本能寺の変の「動機説」はこちらでまとめています。
光秀の性格のまとめ
明智光秀がなぜ「本能寺の変」を起こし信長を殺害したのか?
そのヒントはルイス・フロイス の『日本史』からみる光秀の性格から紐解くことができました。
筆者が考える光秀像を以下にまとめたいと思います。
・織田信長の家臣団の中でトップを目指した
・日本の中心である畿内の領地を支配下に置き最大の勢力を狙った
・そのために武功(実績)を上げるとともに「信長の寵愛を受ける事」に徹底し執着した
・信長に狡猾に取り入り寵愛を受け信用を高めた
・目的達成のためには裏切りや密会、偽装、謀略を駆使した
・最終的に信長をもコントロールし自身の勢力拡大を有利に進めた
・畿内240万石は謀略によりついに光秀が手中に収めた
・荒木村重や佐久間信盛の失墜は光秀の謀略かもしれない
・信長に足蹴りは謀反を起こす口実作りだったかもしれない
・光秀が「利欲や野心」はいつの間にか「天下を取る」ことに変わっていた
・フロイスも光秀の謀反の理由は知らない(推測だけ)
よく織田信長の人物像は、冷酷で猜疑心が強く冷酷で残虐非道、独裁。自身を神格化し天皇を超越する存在などと言われますが、実際はそこまででは無く家臣への優しさや温情や寛容さがあったともされています。
逆に明智光秀の方が狡猾で謀略家、裏切りや偽装を厭わず自己実現のためには徹底した執着心を見せており恐ろしい人物に見えてきます。
織田信長が歴史に残した数々の冷酷非道な事件もいくつか光秀の讒言が関与していたと推測すると妙に納得してしまいます。
以上、「日本史」の記録から明智光秀の性格を検証し、本能寺の変に至った過程を再考してみました。
「本能寺の変の流れ」と2021年に発表された「本能寺の新説」を紹介しています。
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。
また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
Comment
光秀が討った波多野秀治は、急に家紋を『出十字』に替えるなど、切支丹ではないかと云う説があります。そして波多野秀治は、残念ながら身内に売られた(裏切りによって光秀に差し出された)として、必ずしも身内に支持されていない面が見受けられます。フロイスなどは、その辺から安直に敵味方を選別した可能性はどのくらいでしょう?
コメントありがとうございます。
波多野秀治が、家紋を「出十字」に変えたことからキリシタンだったのでは、という説もあるようですね。
フロイス的にキリシタンだからという理由で波多野秀治を好意的に捉えていたかどうかは分かりませんが、『日本史』の目的は「後進に布教の道標となる情報を伝達すること」ですので、客観的事実とフロイスの所感が綴られていると思われます。そして『日本史』に波多野秀治についての所感が記されているかと調べてみましたが確認できませんでした、すみません(もし記述があれば教えてください、、。)
答えになっていないかもしれませんが参考になれば幸いです。