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【前編】佐久間信盛追放!光秀の暗躍?なぜ「折檻状」は突きつけられたか。

2021/02/19
 
佐久間信盛前編
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織田信長の重臣だった「佐久間信盛」。
 
約30年間重用されながらも、1580年に突然家臣団から追放されてしまいました。
 
この時、追放の根拠として差し出されたのが「19カ条の折檻状
 
内容はかなりシビアです。
 
コロナ禍で退職勧奨を進める企業もこんな感じなのでしょうか?(怖)
 
信長のビジョンから外れていく信盛の処罰は、織田家家臣団への戒め、天下への見せしめと言えます。
 
一方で、信盛の追放は「誰かの讒言」によるものとも言われています。
 
筆者はその「誰か」が「明智光秀」ではないか考えています。
 
この記事ではまず、前編で「佐久間信盛の人物」と「折檻状の内容」を紹介します。
 
次の記事で後編として「誰かの讒言(明智光秀の陰謀)」について考えてみたいと思います。
 
(※後編はこちらから参照ください。)

佐久間信盛ってどんな人?

 
佐久間信盛とはどのような人物だったのでしょう?
 
佐久間信盛は、信長の父信秀の代から織田家に仕えた古参です。若き信長を支えて桶狭間の戦い(1560年)や尾張国統一に活躍します。
 
「退き佐久間」(戦の殿(しんがり)で最も危険な任務)の異名を取ったのもこの頃です。
 
その後も、信長につき従って、姉川の戦いや比叡山焼き討ち、三方ヶ原の戦い、一乗谷の戦い、長篠の戦い、長島・越前一向一揆など主要な戦に次々参加。
 
しかし「三方ヶ原の戦い(1572年)」と「一乗谷の戦い(1573年)では、信盛のとった行動が「折檻状」に繋がってしまいます。
 
とは言えその後も石山本願寺攻めでは5年間総司令官(1576年〜)を任命され、当時家臣団で最大の軍事力を与えられました。
 
戦以外でも活躍。例えば、、
 
松永久秀の調略・撤退交渉、足利義昭との和睦交渉等の外交面
 
信長の嫡男信忠の補佐
 
畿内の行政など
 
そして、信盛は1578年、津田宗久邸での茶会で信長から格別な扱いを受けています。
 
佐久間信盛

佐久間信盛(出典:Wikipedia)

 
しかし、石山本願寺攻めは苦戦しました。反信長勢力との連携する石山本願寺が強敵だったからです。
 
石山本願寺攻めをざっくり紹介すると以下です。
 
・石山本願寺が、荒木村重や毛利氏らと連携。
 
・苦境に立たされた信長は、講和申し込むも本願寺が拒否。
 
・この後、九鬼嘉隆が開発した鉄甲船が毛利水軍を撃破。荒木村重も逃走。
 
・その結果、1580年に本願寺は信長に屈し講和が成立。
 
信盛の活躍がありません、、、。
 
この間、畿内では信盛以外の重臣たちが功績を挙げました
 
・羽柴秀吉が三木城の別所氏を攻略
 
・明智光秀が丹波・丹後国を平定
 
・織田信忠・滝川一益・丹羽長秀らが荒木村重の有岡城を攻略
 
・池田恒興が荒木村重が逃げ込んだ花隈城を攻略
 
この結果を受けてでしょう、1580年8月、信盛は信長に追放されてしまいます。
 
タカ 睨み
 
織田軍団において多くの仕事をこなし、かなり高いポジションを保持した人物です。しかし、石山本願寺攻めが終わった瞬間追放されてしまいました。
 
信長の我慢の限界が超えていたのかもしれません。
 
そしてその我慢の限界は「19ヶ条の折檻状」に思いっきりぶつけられることになります。
 
その文面を以下で見てみましょう。
 

佐久間信盛追放!「19カ条の折檻状」とは?

 
では追放されたその理由、「19カ条の折檻状」を見てみましょう。(筆者意訳)
 
1、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に5年間在城していたのに何の功績もあげていない。世間ではそれを不審がっており自分も同感である。情けない思いだ。
 
1、信盛らの腹づもりは、石山本願寺を大敵と考えて戦を仕掛けず、調略も仕掛けず、ただじっと包囲していれば相手は僧兵だから何年かすれば信長の意向によって降伏するだろうと考え、戦を挑まなかったのだろう。武士道とはそのようなものではない。戦の勝機を見極め一戦に及べば信長にとっても佐久間親子にとっても兵士たちの疲労は解放され、まさに武士道と言えるものになっていたのに、身勝手な考えで持久戦に固執し続けたことは武士の道に非ず。浅はかなことである。
 
1、丹波国では、明智光秀が目覚ましい働きで天下に面目をほどこした。また羽柴秀吉の数カ国における働きも比類ない。池田恒興は少禄の身ながらも短時間で花隈城を攻め落とし天下に名誉をほどこした。この現状を見て信盛も奮起し、同じような働きをすべきであろう。
1、柴田勝家はこの状況を聞いて、越前一国を領しながらも手柄がなくては面目が立たなくなるだろうと考え、この春加賀に侵攻し平定した。
 
1、戦で期待した働きができないのであれば、部下を使って調略を行ったり不足に思うところがあれば信長に報告し相談すべきであるのに、5年間それらもしないのは怠慢で、けしからぬことである。
 
1、信盛の与力の保田知宗の書状には「本願寺に立て籠る一揆衆を倒してしまえば周りの小城などは大体片がつく」と書いてあり、信盛親子の連判もあった。今まで直接そう言う報告もなく、自分の意見を部下の手紙で済まそうと言うのは自分の苦しい立場をかわすための言い訳にしているだけではないか。
 
1、信盛は家中に於いて特別な待遇を受けているはずだ。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、紀伊の根来衆を加えれば7ヶ国もの与力が与えられている。さらに自身の配下も合わせれば、どう戦ってもこのような失態は起きなかったであろう。
 
1、水野信元の処罰後その旧領刈谷を与えてやったので、てっきり家臣が増えたものと思ってがそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまっていた。それでも跡目を設けて相応の家臣を雇うこともできたはずなのに、1人も家臣を増員せず水野の旧臣の知行を信盛の直轄として、その収益を金銀に変えていたというではないか。言語道断である。
 
1、山崎の領地を与えた時、信長が引き込んでおいた者等をすぐに追放してしまった事がある。これも前述の刈谷と件と思い重なる点である。
 
1、以前から仕える譜代家臣らに知行を加増してやったり、与力を付けたり、また新しく家臣を召し抱えるなどしていれば、これほどの怠慢は起きなかっただろうに。けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回のような天下の面目を失うことになるのだ。こんなことは唐・高麗・南蛮の国でも常識だ。
 
1、先年の朝倉攻めの折り、絶好の機会に遅れをとった諸将を叱ったところ、恐縮もせず自らの正統性を主張し、おまけに席を蹴って立った。これにより信長は面目を失くした。そのくせ、ここ(天王寺)に在陣し続けていたのは卑怯で、前代未聞である。
 
1、甚九郎(信栄)の罪状は書き並べるのにきりがない。
 
1、まとめて言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人材を召し抱えることもない。その上仕事をいい加減に考えると言うのだから、親子共々武士道を心得ていないからそんな結果になったのである。
 
1、知行を与えずに与力ばかりでまかなっている。敵に備えるにも与力に軍事を務めさせて家臣として召抱えようとしない。その領地を無駄にし自らの収入に回していることは卑怯である。
 
1、信盛の与力や家臣たちまでが信栄に遠慮している。信栄は持論を吹聴し、普段穏やかな振りをしながらも、綿の中に針が押し立てられているのを探るかような怖い扱いをするためこのようになった。
 
1、信長の代になって30年経つが「信盛の活躍は比類なし」と言われる働きは一度もない。
 
1、信長の生涯の中で勝ち戦を逃したのは、先年の三方ヶ原の戦いで、勝ち負けがあることは仕方ない。しかし、家康の援軍だったことで遅参したのだとしても兄弟・身内もしくは相応の譜代家臣が討ち死にでもしていれば、信盛は奮戦するもやむなく撤退と、世間の聞こえも良かったであろうに、一人も死者を出していない。それどころかもう一人の援軍の将だった平手汎秀が討ち死にしても平然とした顔で退却している。武士として分別がない事紛れもない。
 
1、こうなったらもはや、どこかの敵を攻め落とし名誉挽回し帰参するか、どこかで討ち死にするしかない。
 
1、親子共々武将を辞めて頭を剃り、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
 
右のようにこの5年間何の功績もなく、その器にもなかったと言うことの証明は、今回の保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配する信長に楯突くやからは信盛から始まったのだ。その償いに最後の2か条を実行するのだ。了承しなければ二度と天下が許すことはないだろう。
 
ひまわり 枯れる
 
以上です。
 
企業の退職勧奨なんかより激しく厳しかったですね、、。
 
とはいえ、「追放」ありきではなく挽回のチャンスを与えていますよね?
 
「信長は冷酷にも追放した」というイメージが先行しますが実はそうではないんですよね。
 
補足で「朝倉攻め」(上から10段目)について説明します。
 
信長が先手の諸将(佐久間、柴田、滝川、木下、丹羽)に朝倉義景の追撃を命じていたのに、全員遅れを取ってしまいました。それについて叱責した席でのことで、信盛は信長に向かって「そうは言われましてもこれほどの家臣団はありますまい」と主張し席を蹴って立った、といわれる出来事を指します。
 
これを根に持った信長が今回の石山合戦の怠慢に引き合いに出したと言うわけです。
 
朝倉攻めのこのシーン(具体的な戦の進行と朝倉義景の最期)は以下を参照ください。
 

「19ヶ条の折檻状」のポイント

 
この19カ条のポイントを以下にまとめました。
 
追放の直接的な原因は石山合戦での怠慢
光秀や秀吉が努力して大功を上げている間、信盛は無為無策でその様子が際立った
>>>信長が天下に名誉を示せなかった失敗(武力ではなく朝廷を介した和睦)→信盛への不満
 
石山本願寺攻めをはじめとして仕事がいい加減な上積極性がない
堀田の文書の件からも仕事にやる気を感じない上、仕事自体もいい加減。信長に相談すらしに来ない
>>>信盛への不満の1つは、仕事に取り組む姿勢が消極的。→やる気があるなら示せ、と促している
 
信盛親子の武士の気質の欠如がそもそもの問題
武士としての資質がない上に、卑怯で臆病でケチで強欲で性格が気難しい
>>>もう1つの不満は武士としての資質。人格否定のように厳しい言葉が並んでいる
 
信長が与えた領地が家臣団強化ではなく私欲に利用されていた問題
家臣団の強化に使うべき知行地を私利私欲に変えて、弱体化させている事実
>>>褒美を与えれば与えるほど信盛を肥し家臣団を細らせるという実態を知った信長が激怒した
 
武士として名誉挽回するか武士を辞めるか2つの選択をせまる
武士として心変わりして死ぬ気で働け、できないなら隠遁せよ、と迫った
>>>信盛が後者を選んだ理由は興味深い。既に限界だったのか、それとも陰謀に屈したか?
 
このポイントを踏まえて、後半では、「19ヶ条の折檻状」から感じる違和感」と、「誰かの讒言(明智光秀の陰謀?)」について紹介しいます。
 
 
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