『永禄の変』の衝撃!足利義輝を追悼。ー大名は憤慨、庶民はデモを起こすー
2023/03/25
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そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
前回は、永禄の変について紹介しました。
足利義輝殺害の全貌から松永久秀が犯人の濡れ衣を着せられたこと、久秀の難しい立場のこと、覚慶(後の将軍足利義昭)の幽閉が巡って光をもたらしたことについて紹介しました。
今回は、足利義輝が殺害された事件が全国に衝撃を与え、各国大名も民衆も激怒したのですが、その反応や様子について紹介したいと思います。
大名や公家たちの反応
「1565年5月19日、二条御所にて13代将軍足利義輝が討死!」の急報は各地を巡りました。
各国の大名や京都の天皇、公家から民衆にまで激震が走りました。
今までも歴代の室町幕府将軍も家臣との勢力争いで逃亡劇など繰り返してきましたが、まさか陪臣(家臣の家臣)によって殺害される事件は前代未聞でした。
この急報を受けて各地の大名や天皇、公家たちの反応が残されています。以下で紹介したいと思います。
上杉輝虎(後の謙信。関東管領を足利義輝直々に拝領、また義輝の「輝」の一字を賜っている)
「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と怒りをあらわにして神仏に誓った。
畠山高政重臣安見宗房(三好長慶以来河内を巡って三好と対立した武将、のち義昭の奉公衆になる)
「前代未聞で是非も無いこと。(略)無念の至りだ」と憤慨し、上杉輝虎の家臣に弔い合戦を促している。
朝倉義景(越前の大名。国内の一向一揆鎮圧に苦心し足利義昭を奉じて上洛が果たせなかった)
「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と家臣共々憤慨。
この直後、義輝の幕臣だった三淵藤英、細川藤孝らと連携。幽閉された覚慶(後の足利義昭)を三淵藤英らの元へ逃すよう松永久秀を調略し久秀も応じる。次の将軍の座を狙う一手を投じた。
天皇(時の天皇は正親町天皇)
正親町天皇は弔意を示し3日間政務を停止。また故義輝に「従一位左大臣」を追贈。
山科言継(天皇家の財政基盤を担う。人脈づくりのほか文化教養全般に優れ、また医学に通じていた。)
「言葉がない、前代未聞の儀なり」と日記に綴っている。
女官(天皇に近い女官たち)
「言葉もないことだ」と悲しんだ。
このように、各国の大名や武将、そして事件現場に近い京都にいる天皇や側近たちの反応は、驚き悲しみました。また三好家へは強い反発が生まれました。
民衆の反応
畿内の民衆も悲しみと怒りに包まれました。
1567年2月、京都で義輝追善のための六斎踊が挙行されました。
摂津や近江坂本から集った2800人が鐘や太鼓を鳴らし、そこに貴賎関係なく庶民たちが集まって踊りその死を偲びました。その数なんと7、8万人と言われます。
また、同年10月にも安芸(広島)からきた600名が義輝の奉公衆や女房衆に扮し、行列を組んで風流踊りを行ないました。
義輝殺害の悲劇が、畿内の民衆に大きな衝撃を与えたことが窺えます。
足利義輝を偲ぼうと思った人々がこれほど多かったのは驚きです。
殺害した三好氏への抗議を主張するデモのような行為だったとも思われます。
その後の影響
上記の反応からもわかるように、足利義輝を殺害した三好氏(当主三好義継を担ぐ三好三人衆)は多くの人々を敵に回すことになりました。
その代償は三好家を窮地へと追い込みました。その流れを以下で見てみましょう。
1565年
三好家家臣ながら立場が微妙だった松永久秀は、朝倉義景の要請に応じて幽閉していた覚慶(のちの足利義昭)を義輝の幕臣へ引き渡します。
※松永久秀と覚慶の詳細は『松永久秀が足利義輝を殺害?久秀の難しい立場と義昭に紡ぐ運命。』を参照ください。
1568年4月
覚慶は朝倉氏のもとで還俗し、義昭と名乗り将軍を目指します。
しかしその直前の2月、三好氏の元で逼塞していた足利義親(反義輝側)が三好三人衆に担がれ、先に将軍宣下を受け「14代将軍義栄」となってしまいました。
ところが義栄は将軍宣下を受けるも摂津から京都に入ることができませんでした。理由は3つあります。
・大規模デモ
庶民がその前年に六斎踊りや風流踊り行っており、それは三好氏に対する大規模な抗議デモでもありました。そのような気運が高まっている場所に入るのは危険でした。
・松永久秀との抗争
完全にたもとを分けた松永久秀と三好三人衆は激しく大和国や京都で戦争を繰り返しており、戦火を避けるため京都に入れませんでした。よって幕府体制の整備もできなかったのです。
・幕臣の反三好勢力
特に文官たち(奉行衆)の反発が強く、義栄に協力をしないばかりか越前に義昭が存命していると知って駆け出すものもおり、京都で政権を築くことが難しかった(摂津で8ヶ月間幕府の仕事をしています)
これらの理由の他にも、病気(背中に腫瘍)の悪化がありました。
三好氏に対する抗議や反発が入京を阻止することになりました。致命的にも時だけが過ぎていったのです。
1568年9月
足利義昭を奉じて織田信長が上洛し、信長は三好三人衆を武力で一掃し畿内から追い出してしまいました。
義栄も摂津を脱出しますが間も無く病没。逼塞から引っ張り出され病気を患いながらも将軍に据えられ、最後は入京できず戦に敗れ病没するという、時代に翻弄された人生でした。
以上のように、足利義輝を殺害したことが仇となって、京都に入ることが許されない状況を自ら作り出してしまいました。挙句畿内を追われ四国へ去っていくことになったのです。
ついでに三好氏のその後も見てみます
三好三人衆はその後息を吹き返し反信長勢力とともに織田軍を撤退させるに至るも、1573年三好家中で絶対的な支柱と言われた篠原長房を攻め自害に追い込んでしまいます(上桜城の戦い)。
この戦いで三好氏は信頼を大きく喪失し有力国人たちが次々離反し、三好氏は崩壊していきます。
自害に追い込んだのは篠原自遁(実長)の讒言で、きっかけは自身の不倫を諌められたことからです。
この戦いは味方同士で3000名にのぼる死者が出たと言われますが、こんなことに巻き込まれた兵たちが可哀想です。
追い討ちをかけるように当主義継が信長に敗れ討死。
三好三人衆は三好宗渭が病没、岩成友通が討死、三好長逸は行方不明となり崩壊、義継を継いだ長治も四国で長曽我部氏と戦い敗死。
残った十河存保も信長に降伏して、1577年ついに大名「三好家」は滅亡しました。
ちなみにその後、三好康長は所領安堵されますが、長曽我部氏に対抗するため羽柴秀吉の三男秀次を養子に取ります。これが「三好家・羽柴・信長VS長曽我部・明智」の構図に発展していき、光秀が本能寺の変を起こしたとも言われます(本能寺の変「四国説」)詳しくは下記で紹介しています。
まとめ
足利義輝を殺害した「永禄の変」は各国の大名や畿内の人々に大きな衝撃を与え、三好氏への反発を生み出しました。
諸国の大名や武将たちは連携して後継となる「足利義昭」を支援しました。
庶民は7、8万に上る群衆が六斎踊や600名からなる風流踊などを行って義輝を偲びつつ三好氏への抗議を行いました。
天皇や公家も悲しみ、幕臣たちの中には反三好に走るものが多く出ました。
その結果三好氏と三好氏に担がれた足利義栄は京都に入れず幕府の体制を整える事は叶いませんでした。
多くの民衆の反発や幕府官僚の反発を招いた自業自得の結果でした。
そして上洛した織田信長に敗れて畿内から逃亡してしまいます。
足利義輝の人望や存在がどれほど大きかったのか、殺害されてからいろいろ分かることがあって興味深いのではないでしょうか?
最後に、三好氏が一方的に悪者になっているのでフォローして終わりたいと思います。
当時畿内の統治は幕府と三好氏の協調体制をとることにしていました。
しかし時の権力者三好長慶が没した後、義輝は協調体制を無視し次々に親政を進め、また三好側内部の分裂を画策したり不穏な動きが目立っていたのです。
このまま放置すれば諸国大名に声をかけ「三好包囲網」を敷く危険もありました。後の「信長包囲網」と同じようなイメージですね。
そうなる前に「義輝を討ってしまえ」となったわけです。
このような流れを知ると「三好=悪」とも言い切れません。
とは言えいきなり「殺害」はまずかったかもしれませんね。
松永久秀の生涯を通して当時の畿内の状況がわかります。
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