明智光秀はなぜ本能寺の変を起こした?諸説をざっくり紹介!
2023/03/25
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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で「明智光秀」が脚光を浴びていますね!
明智光秀といえば『本能寺の変』をイメージする人が多いのではないでしょうか?
本能寺の変は、1582年6月2日、明智光秀が主君である織田信長に謀反を起こし殺害した事件です。
そもそも光秀は信長に気に入られて重用されており、欲しい領地も与えられ重要な仕事も任されていました。
本人の才能もありますがそのおかげで織田家で中心的な地位を築いていきます。
そんな信長に何の不満あって謀反を起こし殺害したのでしょうか?
その動機は、実は未だ定説がなく謎に包まれています。
謀反を起こした理由として挙げられている説はなんと50説以上!
ここでは主な説をいくつかチョイスして紹介したいと思います。
光秀が起こした「本能寺の変」の動機諸説の始まり
動機説は江戸時代直前から始まって現在まで約400年、様々な説が発表されています。
最も古いのが「本能寺の変」から約30年後の1610年に出された記録です。
しかし古い説でも「定説」とされない、、。
定説が確立しない理由は、根拠とする史料の信憑性の低さ、仮説、推論、想像だったりするからです。
ちなみに信憑性が高い史料は『信長公記』(太田牛一)、『フロイス 日本史』(ルイス・フロイス)などです。
それでは、以下から「主な説」や「筆者が気になる説」をざっくり紹介します。
光秀野望説
信長に変わって天下を取ろうという野望説。
1610年前後に成立した『太田牛一雑記』に記録されており最も古い説です。
「信長の幾度とない温厚も忘れて自分の欲望を為そうと無情にも信長親子を討ち果たした」
と記録されています。
牛一は、織田信長、羽柴(豊臣)秀吉・秀頼に仕え、公平で史料性の高い『信長公記』も残しています。
なお、明智家と同じ家紋を使用していた水野勝成は「裏切り者の家紋」と嫌がって変えてしまいます。
この説が最も古く、そして現代まで生きています。
単純に私利私欲で天下を奪おう思ったのか、何かがきっかけで天下を奪おうと思ったのかは分かりませんが、自発的に本能寺の変へとつながる説です。
筆者は個人的に光秀の性格も考えて、この説を柱として考えています。
光秀の性格についてはこちら▶︎『明智光秀の性格を暴く!愕然!本能寺の変につながる本性とは!?』)
光秀怨恨説
信長への恨みを原因とする説。
恨みの内容は様々な書物に散在していますが、下記に7つ挙げます。
1、信長が下戸の光秀に、大きな杯を差し出し喉元に刀を突きつけ「白刃を飲むか?、酒を飲むか?」と酒を強要し飲ませたという話があります。
2、また、酒宴からこっそり抜け出そうとした光秀を家臣たちの前で信長が「このキンカ頭(ハゲ)!」怒鳴りつけ頭を打ったという話もあります。
この2つの逸話は「恥ずかしめを受けた恨み」です。
キンカとは「禿げ」の意味で、光秀の「光」の下と「秀」の上を合わせた信長的なギャグです。
実際に禿げていたかは定説もありません。
3、光秀が、籠城する波多野氏に対し降伏する条件に自分の母を人質差し出しました。しかし安土城に連れられた波多野氏は信長によって殺害されました。これに怒った城兵は光秀の母を斬首し城内で木に吊るしたという逸話。
4、光秀が、信長から安土城での徳川家康饗応役を任ぜられました。急なことでしたが贅を尽くそうと畿内を奔走したにも関わらず、信長から「魚が腐っている」と因縁をつけられ、解任させられました。そして羽柴秀吉の援軍を命じられたという逸話です。
5、信長が家康の接待について光秀に相談した際、密室で口論になってしまい1、2回足蹴にしたという逸話。信長の方針に対してどうしても譲れない何かがあったのでしょうか。
6,信長から、「出雲国・石見国を攻め取ったら欲しいだけ光秀の領地とする、その際は丹波国・近江国(光秀の根拠地)は没収する」と伝えられた話。攻め奪ったとしても日本の中心である畿内から遠ざかるというお払い箱のような扱いを受けた逸話です。
7、信長が武田家を滅して諏訪(長野県)に滞在した際、家臣や元武田家臣が集結する中、光秀が「我々も骨を折った甲斐があありました」と言ったところ「お前如きが何をした」と信長の逆鱗に触れ、小姓(お殿様の側にいて身の回りの世話や雑務をこなす家来で若い男子が多い)の森蘭丸に命じて鉄扇で叩かれたという逸話です。
織田家でトップを競う光秀にとって耐えきれない屈辱であり、その怒りや憎しみから本能寺の変に繋がったという説です。
将来不安説
光秀が明智家の将来に不安を募らせた。
自分が重用されなくなり、排除されるのではないかという不安が原因とする説です。
信長は譜代(最初から仕えていた)家臣をベースに織田政権を運営していきました。それは譜代家臣への信頼です。その中で外様家臣の光秀は重用されてきました。
とはいえ、同じ外様家臣だった松永久秀や荒木村重は、結局信長に謀反を起こしました。
謀反の理由は将来不安が根底にあり、光秀もそれと同様の事態に陥ったということです。
さらに佐久間信盛の追放のように、譜代で重臣だったとしても突然失脚させられる。
光秀の不安は一気に増大し追い込まれ、本能寺の変へと繋がっていったという説です。
また、光秀の年齢が67歳であり、子供の光慶が10歳前後で将来信長に登用されないことを憂いて謀反を起こしたという説もあります。
そのほか、光秀が武田氏(山梨県)との内通した事がバレることを恐れた内通露顕説などもあります。
松永久秀の生涯についてまとめています
「荒木村重の謀反の概要」と「明智光秀の陰謀(推測)」についてまとめています
光秀ノイローゼ説
不安説からの発展系。
過度のストレスから冷静な判断ができなくなり謀反を起こしたという説。
これは特に史料を根拠にしていません。過度のストレスとは、信長の指令や仕打ちからくる「将来不安説」に基づくものです。
自律神経失調症だったのではないか、と言われます。
筆者が気になるのは、光秀の正室煕子が病にかかって病死した1576〜1581年という時期です。
光秀は煕子が死亡してから追われるように働いています。丹波攻略をはじめ、石山本願寺攻め、紀州雑賀攻め、別所氏攻略、一向一揆攻略、荒木氏攻略など縦横無尽の働きです。信長の命令ということもありますが、愛した妻の喪失感が光秀を駆り立てたのではないかとも思います。これは「ノイローゼ」とまでは言い切れませんが、大きな精神不安定要素だったと思います。
実際に、「煕子の喪失が本能寺の変につながる要因」とする主張もあるようです。しかし言及できる史料がないことから、筆者はそこまでの影響があったのかちょっと疑問に感じています。
煕子は『麒麟がくる』でも登場して、光秀を支えました。
煕子についてはこちらで紹介しています。
暴君討伐説
信長の暴挙を止めるため、光秀が信長を討伐しようとした説。
比叡山焼き討ちや長島一向一揆での老若男女問わない大量殺戮や譜代重臣の突然の追放、将軍の追放、朝廷の蹂躙、さらには自ら神となって民に参拝を促す、といった信長の暴挙に対して自らが食い止めようとして討ったという説です。「蘭奢待」を切り取った行為も衝撃的だったでしょう。
実際、本能寺の変後に光秀が書いた書簡に「信長親子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候」と書かれているものがあります。
ただ一説には、比叡山焼き討ちは実際はそれほど悲惨な状況ではなかったと言われており、比叡山の僧侶が信長の敵を操っていたため、戦略上壊滅せざるを得なかったと言われます。
佐久間信盛などの重臣が突然追放された事件は、信長に重用されていた光秀の讒言が発端との説もあります。
また信長が「自身は生きた神仏であり、石や木は神仏ではないとしていること」に光秀が嫌悪している訳ではないとも言われます。
四国説
四国政策で信長から面目をつぶされた恨みという説。
光秀は四国の長曽我部氏の懐柔政策を任されており、婚姻関係を結んで関係を深めていきました。
明智家重臣の「斎藤利三」は、兄頼辰の義父石谷光政(旧幕臣)が長曽我部氏に仕えており、以前から「斉藤・明智家」と「長曽我部家」は深い関係でした。
斉藤家・斎藤利三についてはこちらをごらんください。
しかし信長が突然、懐柔政策を破棄し、長曽我部氏討伐に切り替えてしまいました。長年、懐柔政策に取り組んできた光秀は、長曽我部の窮地を招くことになり面目が潰されてしまったのです。
また当時、長宗我部氏と勢力争いで劣勢に立った「三好氏」は羽柴秀吉を頼り姻戚関係を結んで家臣となります。
つまり四国における対立構図はこう変化します。
長曽我部氏 VS 三好氏
↓
長曽我部氏(明智光秀)VS 三好氏(羽柴秀吉)
そこに信長が「長曽我部討伐」を命じ、以下の構図に変化します。
「長曽我部氏・明智光秀」VS「 三好氏・羽柴秀吉」・織田家
これにより羽柴秀吉とのライバル争いに後退することにもなり、光秀は二重に怨恨を抱く結果になります。斎藤利三も義父や義妹や親戚を長曽我部氏に抱えていたことから、信長を討つことに積極的だったとも言われています(『乙夜之物語』には先鋒を志願した描写があります)。
また近い説で、長曽我部氏が信長に攻められないように光秀を動かして討たせたという黒幕説もあります。
本能寺の変黒幕説
黒幕説はとても多いです。
天皇と信長の対立から、朝廷が光秀を動かして信長支配の危機を回避しようとした朝廷黒幕説。
将軍足利義昭が京都復帰を目指して光秀に信長を討たせた足利義昭黒幕説。
そのほか羽柴秀吉黒幕説、徳川家康黒幕説、毛利輝元黒幕説、堺商人黒幕説、フロイス・イエズス会黒幕説ほか様々あります。
ですが、どれも仮説の域を出ないものやフィクションに近いものが多いです。
ただ本当に黒幕がいたとしたら、光秀が死亡した後に得をした人がいるはずです。その人物は本能寺の変の原因が自分に降りかからないよう、事前に周到なアリバイを作り逃れているはずです。当時にバレないアリバイを作られていたらお手上げですよね。真実は闇です。
ということも考えたりすると、「本能寺黒幕説」も一概に否定できません。
土岐家滅亡阻止説
土岐氏(明智家の先祖)の滅亡を阻止しようとした説
明智光秀の子孫を明言する明智憲三郎氏が長年の研究の上に2009年に発表された説です。
信長は家康を殺そうと本能寺に招き入れたところで光秀に襲撃させる手筈を整えていましたが、信長のとる政策にもはや土岐家再興(美濃・尾張・伊勢の領地回復)が絶望的で明智家(土岐氏)の将来も危ういと思った光秀が、一族の存亡をかけて逆に家康と共謀し信長を討った、という説です。
この説に対して様々な主張がされているためなんとも言えません。
以上、主だった説をいろいろ紹介してきました。
光秀の本能寺の原因については、上記以外に他の説と複合されたものもあり多種多様に存在しています。
まとめ
明智光秀が織田信長に謀反を起こして、本能寺で殺害した事件は日本を揺るがしたに違いありません。
にも関わらず、信憑性のある史料が少なく謀反を起こした原因が不明、また明智光秀自身についても不明点が多く様々なことが謎に包まれています。事件後わずか30年で最初の説が浮上するわけです。
個人的には、「光秀野望説」が柱で、そこに「暴君討伐説」や四国説のような「怨恨説」が複合的に合わさったのではないか、と思います。光秀の性格をルイス・フロイスの「日本史」に見ると、利欲や野心が強く謀略を好み、また信長を蹂躙していたように記録されています。そう言う点からも光秀自身が天下人だと錯覚して起こした本能寺の変だったのではないかと思います(光秀の性格については上段のリンクから)。
とは言え約400年の間あらゆる説が発表されています。
今後、史実が解明されていくことを期待したいと思います。
「史実の解明」というと、このほど「本能寺の変」について新説が発表されました。本能寺の変の体験が記録された『乙夜ノ書物』が解読されたのです。信憑性が高いということで今後の更なる解読が楽しみです。
最後に上記で挙げた諸説のタイトルを列挙します。
野望説
怨恨説
不安説
ノイローゼ説
暴君討伐説
四国説
黒幕説
土岐家滅亡阻止説
『麒麟がくる』も終盤ですね!どんな最終回になるか楽しみです!
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また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!