光秀の子供たちを追う!ー『出雲逃亡説』を紹介ー
2023/03/25
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。
また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
明智光秀が『麒麟がくる』によって脚光を浴びました!
「裏切り者の光秀」から「正義の光秀」になって蘇りました。
その明智光秀は、謎が多い武将でも有名です。
子供の人数や、光秀の死後の行方や生存も多く謎に包まれています。
ここでは、光秀の子供・遺児についてスポットを当てたいと思います。
内容は「明智光秀の子供たち」と「出雲逃亡説」についてです。
光秀の子供が出雲に逃亡したという説は、郷土史に基づいています。
殆どの知られていないと思われますので紹介しようと思います!
光秀の子供たちは何人いたのか?
まずは、明智光秀の子供たちを紹介します。
子供達については『明智軍記』によると3男4女
『鈴木叢書』によると6男7女
と記述があり子供の数が定かではありません。
以下が子供の記録です。
『 明智軍記 』
長女:明智秀満妻(元荒木村次妻)※荒木村重の謀反で明智家に戻る
次女:明智光忠妻
三女:細川忠興妻(細川ガラシャ)
四女:津田信澄妻(織田信長の甥) ※子昌澄は豊臣・徳川に仕える
長男:明智光慶(本能寺の変後死亡。病死?自刃?生存?出家?など諸説)
次男:明智光泰
三男:乙寿丸(本能寺の変後死亡。荒深小五郎(=光秀)と共に岐阜に生存?)
『 鈴木叢書 』
長女:菅沼定盈妻ー養女
次女:桜井家次妻ー養女
三女:津田信澄妻(織田信長の甥)
四女:細川忠興妻(細川ガラシャ)
五女:筒井定次妻
六女:川勝丹波守妻(※丹波守は丹波攻略で光秀に味方した川勝継氏の孫)※丹波攻略についてはこちら
七女:井戸三十郎妻
長男:玄琳ー妙心寺住職(明智光慶と同人とする説あり)
次男:安古丸(山崎の戦いで討死)
三男:不立ー天龍寺閑居
四男:十内(坂本城落城後死亡)
五男:自然(坂本城落城後死亡)
六男:内治麻呂(母=側室喜多村保光の娘説)※側室
不明:定頼
「津田信澄の妻」と「細川ガラシャ」だけ両方に共通しており存在が確実と言えそうです。
その他の子供たちについては存在の確証がありません。
また、光秀は生涯「正室しか持たなかった」とい言われますが、子供が多いことから側室がいたとも考えられます(※光秀側室についてはこちら)。
いずれにしても、光秀自身も謎ですし、その子らも謎に包まれています。
また、光秀の死去後、死亡・逃亡した子供たちがいますがそれも定説ではありません。
その逃亡について、同じように一説として存在する「出雲逃亡説」があります。
これは郷土史に「光秀の遺児二子の逃亡」について書かれておりほとんどの人が知らない説だと思われます。
(「出雲逃亡説」は筆者が勝手に名付けた名前です(すみません笑))
以下からその内容について紹介します。
光秀の子供は出雲に逃れた!?
ここで紹介するのは、「明智光秀の二子が出雲に逃された」という内容です。
拠出は、「郷土史」に基づきます。
以下にまとめました。
< 郷土史の内容 >
天正十年(1582年) 6月2日、明智光秀が本能寺で織田信長を討つ
光秀は、6月13日、山崎の戦いで敗れ敗走中に死亡
同日、明智光秀の主命を奉じた「与一右衛門」が光秀の二子を連れて出雲(島根県)に逃亡
6月18日、出雲に下った与一右衛門は、二子を一畑薬師に入れ出家させる
二子は「長岳寿慶首座」となる
与一右衛門は麓に広大な敷地を構え、土地を広げて代々富豪となる
(元禄十二年の検地では百二十石を所持)
その後も巨万の富を得、神社仏閣に寄付したり貧窮をお救助するなどして名望が高かった
以上が「出雲逃亡説」です。
このように「与一右衛門」という人物によって光秀の子供たちが難を逃れて生き延びたという伝承があります。
根拠となる郷土史には、具体的な日付や名称が記載されていることから信憑性が高いと期待しています。
しかし二子とは誰を指すのかは不明です。
上記で紹介した『明智軍記』や『鈴木叢書』にある子供達の中の誰かなのか?それとも記録にない子供なのか?
やはり謎です。
光秀二子を出雲に逃した与一右衛門とは?
さて、出雲逃亡説に登場する「与一右衛門」とは何者なのでしょう?
これも同じ郷土史に拠るもので以下に紹介します。
『与一右衛門とは?』
元々下野国(栃木県)の人
近江国(滋賀県)坂本に移り比叡山に登り兵学や仏学を修める
当時坂本城の城主であった明智光秀と知り合う
親交を深めるうちに家臣となる
軍師として活躍するようになる
光秀の二子を出家させた後は近くに家を構える
屋号を「栃の木」とする(下野国栃木(地名)を由来と考える)
時代は下り一時は巨万の富を築いた名家は零落し、やがて本家は途絶える
その後は分家が本家のすべての祭祀を取り営む
しかしながらこの分家も旧家で、元祖庄右衛門が慶安元年(1648年)に石高五十石を譲り受けて分家を創立した
以上が与一右衛門についての紹介でした。
与一右衛門の「与一」は那須与一(栃木の御家人)、屋号も「栃の木」であることから故郷愛の強さを感じます。
しかし関東に逃れずに出雲に逃れているのは「出雲」に「栃木」と縁が深い何かがあったのかもしれません。
気になる点は、「軍師」レベルにも関わらず歴史に名前がないことです。
家臣ではなく、僧侶として協力者だったのかもしれませんが、痕跡を見つけたいところです。
まとめ
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で脚光を浴びている明智光秀。
謎の多い人生の中で、「子供たちが何人いたのか?」、また「光秀の死後どうなったか?」についても謎です。
そんな中で、光秀の子供たちが出雲に逃れたという「出雲逃亡説」を紹介しました。
以下に今回紹介した内容をまとめます。
< 明智光秀の子供について >
『明智軍記』=3男4女
『鈴木叢書』=6男7女
光秀の子供については不明なものがほとんど
よって、光秀死後の子供たちの生存や逃亡についても定説はない
< 『出雲逃亡説』とは? >
明智光秀の二子が出雲国に逃亡し、一畑薬師にて出家したという説
逃亡を支えたのは主命を奉じた「与一右衛門」という人物
与一右衛門は元は下野国の人で、近江国坂本に移って明智光秀と親交を深め家臣となった人物
与一右衛門は、屋号を「栃の木」とし代々栄えるも、やがて零落
現在は分家が本家の祭祀を全部営んでいる
以上です。
明智光秀の子供たちに関する説「出雲逃亡説」を紹介しましたが、これを知っている人は地元も含め殆どいません。
史実か俗説かも分かりませんが、地域にそういう伝承があることが紹介できて良かったです。
もしかしたら他の地域にもまだ眠っている伝承があるのかもしれませんね。
以下では「明智光秀」に関する記事を紹介しています。興味ありましたら参照ください!
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また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
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