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明智光秀の側室と駒・東庵のモデルについて

2021/08/01
 
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
『光秀の妻「煕子(ひろこ)」ー正室としての最期と愛ー』では、明智光秀の正室「煕子」について紹介しました。
 
お互いを思い支え合って生き抜いた夫婦像が見えました。
 
こちらでは光秀の側室について、また『麒麟がくる』に登場する「駒」と「東庵」について史実モデルの検証をしてみたいと思います。
 
 

明智光秀の女性関係

明智光秀は生涯側室を持たなかったというのが有力な説です。
 
しかし女性関係についての史料が少ないため確実な事が言えないのも正直なところで、側室がいたという説もあるのです。
 
明智光秀 肖像画

明智光秀(出典:Wikipedia)

 
以下から1人ずつ紹介します。
 

喜多村保光の娘

1人目は、喜多村保光(伊賀国柘植城主)の娘
 
『鈴木叢書』の「明智系図」によると光秀には側室を含め六男七女の子が確認できます。
 
その中の内治麻呂が六男として1582年1月に生まれていますが、側室だった彼女の子のようです。
 
彼女と子は、山崎の戦いの後に実家に逃れ、江戸時代に喜多村保之として幕府に仕えたと言われます。
 
1635年に妙心寺住職の玄琳が「明智系図」を作成して保之に贈り、「光秀の息子」だということを教えたと伝わります。
 
その玄林も実は光秀の嫡男光慶だったのでは、とも伝わりますが実際は不明です。
 
実は光秀も死なずに逃れて、本徳寺で出家したという伝承があります。本徳寺を開基した南国梵天は光慶だとも言われます。なんだか諸説だらけですね笑

原仙仁の娘

2人目は公家の原仙仁(のりひと)の娘です。
 
残念ながら当時公家に「原」姓はおらず原仙仁がどのような人物だったのかも分かっていません。
 
この側室の妹が美濃国恩田孫十郎(明智孫十郎に改名)に嫁いでいることから実在した人物であろうとは推測します。
 
この側室は光秀との間に一女を産んでおり川勝秀氏の妻となっています。
 
秀氏には公家綾小路家から正室がはいっており側室扱いということになります。
 
資料に基づくものがないため諸々不明です。
 

伏屋姫

実は光秀の正室については不明点が多いのですが、名前の「煕子」も1975年『細川ガラシャ夫人』(三浦綾子著)で世に広まった呼称でそれまでは「伏屋姫」や「御牧の方」で知られていました。
 
そのため「伏屋姫」は正室であると言えますが、上記の側室喜多村保光の娘と同一人物とされる場合もあり、正室煕子の死後に後室となった女性、もしくはそもそも側室だった女性などと言われます。
 
つまり「煕子=光秀正室」ですが、「伏屋姫=光秀の妻」という曖昧な存在となってしまいます。
 

ふさ

光秀の側室。
 
山崎の戦いで敗れた後、光秀嫡男の光慶を連れて上総国(千葉県)に落ち延びて生活したという説があります。
 
千葉県市原市には「ふさの方」と「土岐重五郎」と「つね(重五郎の妻)」の名が刻まれた墓石が残っています。
 
『斎藤利三とはどんな武将?明智光秀に忠義を尽くした男の人生』でも紹介した斎藤利三が何と関東まで付いて補佐しており追手と戦闘なり討ち死にしたと言われています。
 

千草(側室?)

明智氏の血縁関係では妻木氏以外に「(進士)山岸氏」とも深い繋がりがありました。
 
光秀の従姉妹(光秀の父光綱の妹婿)山岸光信に「千草」という娘がいました。
 
千草と光秀は、1546年に(光秀18歳・千草16歳)に結婚しましたが、千草はその後死別したとされます。
 
光秀と千草の間に嫡男作之丞ができたため結婚することになったものの、千草が亡くなったため母方の山岸家で養育することになったとされます。
 
作之丞は後に光秀の家臣となり明智光重と名乗り光秀と運命を共にしました。
 
刀
 
また山岸氏は明智光秀の嫡男となることを憚って正室や側室にせず未婚の母にして作之丞も西美濃の郷士になったとも伝わります。
 
これは光秀が家督を継いでいない時期の密通でできた子供だったことも理由です。
 
また明智城が落ちて越前に逃亡する際に、光秀が山岸光信に千草と息子を預けたともされます。
 
色々な説があって本当のところはよくわかりません、、。
 

『麒麟がくる』の「駒」のモデル?

さて上記の「千草」って『麒麟がくる』の「駒」と重なりませんか?
 
「駒」はモデルになった人物はないと発表されていますが、「千草」がよく似ているように思います。
 
「駒」は光秀に想いを寄せていました。
 
斎藤道三の娘帰蝶も光秀に想いを寄せ、光秀は帰蝶に想いを寄せていました。
 
しかし現実では家格や血縁から結婚が決められた時代で、ドラマでもそれに沿ってどれも叶わぬ恋でした。
 
千草の一説も同様で、光秀と嫡男を設けながらも結ばれず未婚の母になっています。
 
出会った年齢もお互い10代であったことを考えると、『麒麟がくる』の部屋住まいだった光秀が駒と出会い、駒の片思いだったものの、家格から叶わぬ恋が描かれたことと通じる気がします。
 
駒は「麒麟がくる」世を信じており、光秀も導きたいと思っていました。
 
最後まで2人は一貫した思いを抱いて終わりました。
 

『麒麟がくる』の望月東庵のモデルとは?

「駒」が出てきたので、ついでに望月東庵についても史実モデルを考えてみたいと思います。
 
実は前記事の「煕子」を調べている時に、重病にかかった光秀を診た医師「曲直瀬道三」の存在を知りました。
 
『麒麟がくる』の今後の展開を考えると重症になった光秀を診るのは望月東庵ではないか?と推測しました。そこで曲直瀬道三を調べると、「東庵」にそっくりだったのです。
 
そこからさらに調べると何と!大河ドラマの制作統括と門脇麦さんとのトークの中で、「曲直瀬道三を池端俊策さんに提案した」とあったのです。
 
東庵は曲直瀬道三をモデルにしたものだと確信しました!
 
ただ「道三」ではなく「東庵」という架空の人物にすることで庶民視点の描写や脚本家や制作の伝えたい内容を代弁する役として出来上がったのだと思います。
 
以下に簡単ですが曲直瀬道三を紹介します。
 
曲直瀬道三

曲直瀬道三(出典:Wikipedia)

 
曲直瀬道三(1507〜1594年)はそれまでの観念的な治療ではなく実証的な臨床医学を始めた医師でした。
 
評判は高く足利義輝を始め各国の有力大名から依頼を抱え、果ては正親町天皇まで脈とっているほどです。
 
東庵が各地を転々としていることや正親町天皇と双六を打っていることなどに通じます。
 
また信長からはあの「蘭奢待」を下賜されています。
 
戦国時代でもかなり著名人だった訳です。
 
東庵の設定も「今は落ちぶれているが戦国大名や朝廷と人脈を持つ」とあります。
 
そのほか医学書を多数残し、医学校「啓廸院(けいてきいん)」を創設し800名の門下生がいました。
 
そしてその門下生らによって曲直瀬流医学は江戸時代に向けて隆盛を迎えました。
 
これによって多くの人々の命が救われたことでしょう。
 
もはやもうひとつの「麒麟」がきたと言えるのではないでしょうか。笑
 

望月東庵のモデルについての修正!

望月東庵のモデルが曲直瀬道三だと確信していましたが、第43回『麒麟がくる』(2021.1.31放送)で、別人だということが判明しました!笑
 
個人的には衝撃的なニュースでしたので、追記した事態です。
 
ドラマの内容は以下です。
 
目を患った帰蝶が、望月東庵を頼って美濃から上京してきます。そこで東庵は「古い仲間の曲直瀬道三」を帰蝶に紹介しました。よく聞き取れなかったのですが曲直瀬道三は眼病に詳しい医者と設定されているようでした。
 
ということで、望月東庵は曲直瀬道三ではなかったのです。
 
しかし、東庵のキャラクター設定は曲直瀬道三をモデルにしていたと思われます。
 
なお、帰蝶についても半分架空人物のように人生がほぼ謎に包まれています。ドラマにあるように美濃に戻ったり、上京したり、いつ死んだのかなどについても一切不明なのです。帰蝶については以下で詳しく紹介しています。

まとめ

明智光秀の側室について紹介しました。
 
喜多村光保の娘
内治麻呂を産むも、山崎の戦い後実家に逃げて喜多村保之として江戸幕府に仕える
 
原仙仁の娘
一女を産み、川勝秀氏の妻となっている
 
伏屋姫
正室煕子の俗称?煕子の後室?側室?
 
ふさ
山崎の戦い後、嫡男光慶を連れて上総国(千葉県)に逃亡しその土地で生活した
 
千草
光秀の正室となるも死別(その場合煕子は後室)、もしくは密通。嫡男作之丞を生み光秀に仕え明智光重と名乗る、または美濃国の郷士。
 
そもそも明智光秀自身の出自・生年・人生の前半が謎に包まれており、さらに妻については史実が掴めないのが現状です。
 
そのため上記の側室についても文献はあるものの史料が乏しく信憑正に欠けていることに注意しないといけません。
 
なお、『麒麟がくる』に登場する「駒」と「望月東庵」についての史実モデルも検証しました。
 
筆者は「千草」の生い立ちや生涯から「駒」の参考になったのではないかと推測します。
 
また「望月東庵」は「曲直瀬道三」ではありませんでしたが、参考にしたであろうと推測しました。
 
 
以下に関連する記事を紹介します。
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