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松永久秀とは?誕生から最期までを簡単に紹介!

2021/08/01
 
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ここでは戦国武将「松永久秀」について紹介したいと思います!
 
大河ドラマ『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さんが演じられました。
 
かなり重要な役どころでしたね。 
 
公式Twitterでは、当時以下のようにコメントされております。
「天敵である筒井順慶と同じ宴(うたげ)に同席させられた。そりゃあ松永は激怒しますよ。めずらしく感情的になって松永の本音が出たシーンでした。監督から『もう少し抑えたほうがいいのでは』と言われるくらい思いっきり光秀に怒りをぶつけました」(吉田鋼太郎/NHK「麒麟がくる」公式Twitter)
ドラマ内で初めて怒りを露わにしたシーンで、Twitterでも「ついに松永久秀の本性が出始めた」などとざわつきました。
松永久秀が活躍した畿内は、権力者が多い上に敵味方がコロコロ変わり、また戦っては休戦が繰り返され目まぐるしい地域。
 
松永久秀自身もコロコロ変わっていくわけですが。
 
そんな複雑な畿内情勢ではありますが、「ざっくりと松永久秀の人生を知りたい」という方に向けて簡単にわかりやすく紹介したいと思います。

久秀の出世街道!

1508年に、摂津国に生まれ(山城国とも)ます。
 
1533年ころから「三好長慶」の右筆(書記・秘書)として仕えます。
 
長慶は主君細川晴元をしのぐ勢力を持つようになり久秀もその幹部となります。
 
三好長慶

三好長慶(出典:Wikipedia)

 
1549年、長慶が晴元と将軍足利義輝を京都から追放して三好政権を樹立させると、家宰(宿老・上層幹部)となり幕府政治を担うようになります。
 
長慶が義輝ら反三好勢と戦や和議を繰り返す中、久秀は各地の戦で活躍し大和国を平定します。
 
1560年には居城を摂津国滝山城から大和国信貴山城に移し天守を造営。
 
和睦協定を結んで京に迎い入れた義輝からは「御供衆(将軍の側近)」に任ぜられて、権力は主君長慶に並ぶようになります!
 
また長慶からは大和一国を与えられ大きく勢力を伸ばします。
 
1562年には大和国に多聞山城を築城し京都との押さえにしました。
 
久秀は元々敵対していた義輝のためにも熱心に仕えました。
 
しかし1564年に三好長慶が病没してしまいす。
 
長慶によって均衡が保たれていた「三好家・足利家」の間に再び亀裂が入ります。
 

三好家との断絶と受難

1565年、先んじた三好家により足利義輝が殺害されてしまいます!(永禄の変
 
足利一門が殺害される中、久秀は義輝の弟覚慶(後の義昭)を幽閉し生かして逃しました。
 
この一件や畿内の主導権を巡り三好家と対立が起こり、三好義継(三好家当主)を担ぐ三好三人衆と三好家を2分する内紛が起こってしまいます。
 
また同年キリスト教宣教師を追放。
 
しかし、久秀は勢力を強めていく三好三人衆に大和・摂津・山城など各地で敗戦を喫し窮地に陥ります。
 
1566年5月、ついに姿をくらましました。
 
大和国では久秀に追いやられていた筒井順慶が三好三人衆と手を結んで久秀を破り勢力を挽回します。
 
三好政権で権勢を誇った久秀は表舞台から消えてしまいました。
 
「永禄の変」は別記事でまとめています。記事下からご覧ください。
「松永久秀のクリスマス休戦説」も別記事でまとめています。記事下からご覧ください。
 

三好義継が駆け込む

三好三人衆側では権力を手に入れるため足利義栄を担いで将軍に据えようとしていました。
 
そのため「三好家君主」に据えられていた三好義継は蔑ろにされたため、憤慨して松永久秀の元へ駆け込んでしまいます。
 
これで勢力を挽回した久秀は復活して1567年、東大寺で三好三人衆の軍と戦い勝利!(東大寺大仏殿の戦い)
 
この戦いで大仏殿は炎上し大仏の首も落ちてしまいました。
 
久秀は勝利するも、劣勢は続き1568年には信貴山城が奪われてしまいました。
 

織田信長の登場

1568年、織田信長が足利義昭の将軍就任を叶えるべく上洛します。
 
義昭が将軍に就任し幕府が再興すると久秀は再び「御供衆」に任ぜられ大和一国の支配も承認されます。
 
信長の協力を得て奪われた城を奪回し大和国の平定を進めました。
 
久秀は数年前から信長と交信していたため信長・義昭の協力者となり得たのです。
 
三好三人衆は信長に敗れ四国に逃亡しました。
 

足利義昭との対立

久秀は、その後も信長に協力して金ヶ崎の退却では信長を助け、織田と三好三人衆との和睦交渉や本願寺攻めなど活躍しますが、義昭とは反目し合うようになります。
 
義昭が筒井順慶に養女を嫁がせ味方に引き込んだことから義昭と戦争が起きます。
 
1571年、久秀は順慶と争うも大敗。
 
しかし、敵だった三好三人衆と協力し幕府側の和田惟政を討ち取ります!
 
さらに味方を増やすべく朝倉義景や武田信玄、本願寺顕如ら反信長勢力と接触を持っていきます。
 
そんな中、義昭と信長の対立が深刻化。
 
すると久秀の矛先は義昭から信長へと移っていきました。
 

久秀謀反を起こす

1573年、信長包囲網を形成した義昭が信長に挙兵すると久秀・三好義継も呼応して挙兵します。
 
しかし武田信玄が病没し、義昭は敗れ、浅井・朝倉氏も滅亡し、三好三人衆も敗れ包囲網が崩壊します。
 
義継は織田軍に敗れて自刃します。
 
久秀は多聞山城で信長に降伏し、城を明け渡し臣従を誓います。
 
同時に筒井順慶も信長に臣従しました。
 

松永久秀の最期

久秀と順慶は改めて信長の家臣となりますが、大和国の支配権は信長の家臣塙直政に与えられました。
 
しかし1576年、本願寺攻めで直政が戦死すると信長は大和国の支配を順慶に任命します。
 
順慶は久秀の多聞山城などを破却して久秀勢力を削っていきました。
 
1577年、久秀は突如本願寺攻めから離脱し信貴山城に立てこもり信長に謀反!
 
信長は二度の裏切りにも関わらず「申し開きをすれば許す」と使者を送りますが、久秀が追い返したため4万の軍勢で包囲。
 
信長は久秀の所持する天下の名器「古天明平蜘蛛」を差し出すよう使いを出しますが「平蜘蛛の釜と我らの首は信長公に見せるつもりはない」と言って追い返します。
 
 
松永久秀

松永久秀(出典:Wikipedia)

 
10月10日、先鋒隊を務めた筒井順慶と久秀は激しい攻防をみせますが、突如三の丸から火の手が上がります。
 
配備した鉄砲隊200名が反乱を起こしたのです。
 
城内は混乱に陥り制御不能となった松永家は滅亡を迎えます。
 
ついに久秀は自刃して果てました。
 
享年68歳。
 
この反乱軍は本願寺の援軍として入城させた兵でしたが実は筒井順慶の計略だったようです。
 
久秀の首は信長が検分した後、筒井順慶が丁重に達磨寺に葬ったと言われます。
 

まとめ

以上が、松永久秀の一生でした。
 
人生の前半では、三好長慶と幕府に仕え権力を強大なものにしましたが、後半の長慶亡き後は、三好三人衆や足利義昭、織田信長らと敵味方になりながら大和国をめぐって筒井順慶と争った人生を送りました。
 
松永久秀は、「天下の三大梟雄」と言われ戦国時代の悪人としても名高いです。
 
それは三好家であれよあれよと実権を握り長慶に並ぶ権力者となり最後は長慶を死に追いやり下克上を果たしたことや、東大寺の焼き討ちで大仏の首を落としたこと、何度も裏切りを繰り返したことなどからそう呼ばれています。
 
ですがそれは後世の創作とも言われます。
 
この辺りについては別記事(下記リンク参照)で紹介しております。筆者は「梟雄」というよりは、『麒麟がくる』の松永久秀のように畿内の安定を目指しながらも、主君長慶から拝領した大和国を守ろうと信念を貫いた人物のように思います。
 
以下で関連した記事を紹介しています。興味がありましたらご覧ください。
 
「永禄の変」は松永久秀が犯人なのか?について解説しています。
キリシタンを嫌っていた久秀がクリスマス休戦をしたという説があります。
松永久秀が「天下の梟雄」と呼ばれる理由について紹介しています。
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