『麒麟がくる』朝倉義景をもっと見たい!義景の最期を史実で辿る。
2023/03/25
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『麒麟がくる』の「第37回:信長公と蘭奢待」では、信長が大快進撃をみせました。
足利義昭を京都から追放した後、浅井氏・朝倉氏を滅しました。
とても楽しんで見れたのですが、朝倉義景のシーンが少しだけ寂しかったかな、と感じました。
SNSでも「ナレ死」、「テロップ死」、「終わり方がエヴァ。」とかという言葉が並んでいましたね笑
コロナの影響もあったと思いますが、朝倉義景の最後のシーンは戦闘の過程がほとんど描かれていませんでした。
本記事では、それをサポートするために、朝倉家最後の戦いを紹介しようと思います。
どのようにしてあの最期「テロップ死」に至ったのか?地図を使いながら紹介します。
目次
朝倉義景とユースケサンタマリアさん
SNSでは朝倉義景演じる「ユースケサンタマリア」さんの演技が絶賛されていました。
家臣がまとまらない朝倉家では義昭の上洛もできませんでしたし、打倒織田信長を目指すも最後は家臣が信長に寝返って自刃に追い込まれてしまいます。
空回りする義景をユースケさんがうまく表現されていました。
「麒麟がくる」での朝倉義景の最期のセリフ。
「足利尊氏公からこの越前国を当てがわれて11代。」
「儂は朝倉宗家、、、朝倉義景じゃ!」
と言い放って終わりましたね。
これは義景の一貫した思いで、彼の人生はこの一言に集約されるのではないかと思います。
ユースケさんのコメントでは「演じる中でどんどん好きになっていって、僕の心の中では朝倉家は永遠に不滅です。」とおっしゃっていました。
また「出演者、スタッフの中で最も朝倉義景を愛していました。」ともおっしゃっています。
朝倉義景への強い思いは演技を通して我々に伝わりました。
だからこそ、もう少しドラマを見たかったー笑。
ですのでユースケさんの義景を想像しながら以下で一乗谷の戦いを紹介したいと思います。
1573年、信長包囲網の瓦解!
まずは「信長包囲網」についてさらりと紹介します。
足利義昭による信長包囲網は、武田信玄・朝倉義景・浅井長政・三好三人衆・松永久秀・本願寺勢力などで形成されていましたが、1573年、一気に瓦解します。その一つに朝倉家滅亡もありました。
経緯
4月 武田信玄病没(武田家の上洛がストップ)
7月 三好家の支柱だった篠原長房が自害。三好勢力の崩壊
7月 義昭が信長との講和を破って挙兵!しかし敗れて京都から追放される(槙島城の戦い)
<「足利幕府の実質上の崩壊」と「信長の包囲網の残党討伐のはじまり」>
8月 朝倉家滅亡(利根坂の戦い・一乗谷の戦い)
9月 浅井家滅亡
11月 三好義継討死。松永久秀降伏。本願寺和睦。これにて包囲網は崩壊。
この後本願寺勢力中心に再度包囲網が形成されますがこちらでは割愛。
このような流れで包囲網が瓦解します。「麒麟がくる」ではさらっと流れていきましたね。
では具体的に朝倉家滅亡までの流れを紹介したいと思います。
朝倉義景、2万人の援軍で駆けつける
信長が小谷城に籠る浅井長政を包囲しようとし、そこに朝倉義景が援軍を送ります。
以下から、戦場マップとともに『麒麟がくる』で描かれなかった経緯を紹介します。
経緯
1573年8月
織田信長が3万の軍勢で近江国に攻め入り虎御前山に布陣。5千の軍勢の浅井長政は小谷城に籠城
朝倉義景が2万の援軍を送り余呉に布陣
浅井長政の家臣阿閉貞征が信長に寝返る!
信長の包囲が一気に加速
義景が田上山に布陣し、大獄岳砦など複数の守備砦を築く
信長軍も山田山に布陣し、砦を築いて挑発
義景は前年も2万の援軍を送っていますが、信長が「決戦しよう」と言っても対応せず、そればかりか前波吉継はじめ多くの味方が寝返ってしまう結果を招き退却しています。家臣の信頼を落としてしまいます。
今回も義景の出兵は家臣の反対を押し切ったものでした。
家臣の朝倉景鏡や魚住景固は出兵を拒否、参陣していません。
浅井家も離反が続いており小谷城が孤立してしまいました。
暴風雨の中の奇襲!運命を分かつ
朝倉家と織田家の運命を分ける戦いが起きます。
経緯
8月12日
暴風雨が襲う。
信長は好機と捉え、1千の軍勢を連れて密かに大獄岳砦を奇襲
悪天候で襲ってくると思わなかった兵は大敗。信長は殺さず逃す。
続いて丁野砦も奇襲し大敗。こちらも逃された。
信長が朝倉兵をあえて逃した理由は、大敗したことを義景に伝えるためでした。
そして「義景は必ず退却するはず」と信長は計算しており、前もって織田家家臣に「好機を狙って追撃せよ」と命令したのです。
信長から事前に命令を受けていた家臣は佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀らです。
ルイスフロイス は信長について「戦術に極めて老練で」と述べていますが、まさにその通りの戦でした。
主の失態と家臣の失態
2つの砦から大敗の報を受けた義景は、長政との連絡が取れなくなったこともあり退却を始めます。
ここで織田家に問題が、、。信長の命令を受けていた家臣が追撃のタイミングを定めかねており動けなかったのです。
経緯
8月13日
朝倉軍退却。
信長は家臣が動かないため、自身が本陣を率いて追撃。家臣は慌てて追撃に加わる。
信長は朝倉軍に大打撃を与える。
利根坂や敦賀においても大打撃を与える。
この敗走により朝倉軍は3000人が討たれた。
朝倉景行や朝倉道景などの一門衆や山崎吉家などの重臣も討死し、朝倉家中核の家臣らは壊滅。
わずか10名ほどの手勢で一乗谷城を目指す。
朝倉軍は家中の統一が図れていないこと、重臣の不参陣、織田家の蹂躙工作などから、そもそも最初から戦意が低くかったのです。
そういった事情も含め義景は退却を決定しましたが、すでに信長にはお見通しでした。
「麒麟がくる」で榎本孝明さん演じた山崎吉家はこのタイミングで討死しています。無念、、。
織田家では家臣が追撃に出遅れたことに信長が怒り叱責します。
ところが、叱責する席で問題が起きます。
皆が謝っている中で、1人だけ反発した家臣がいたのです。
その家臣とは佐久間信盛です。
信長の叱責に涙を流しながら「そうは言われましてもこれだけの優秀な家臣はおりますまい」と言って机を蹴って退出してしまいました。
これに信長は激怒!
厳罰に処せようとするところを家臣がなだめ何とか落ち着いたようですが、後の信盛追放の罪状の一つに盛り込まれることになります。
「麒麟がくる」では山崎吉家討死シーンを膨らませてこの「利根坂の戦い」をちょっと見たかったですね。
朝倉家では義景が多くの家臣を失う失態、織田家では家臣が追撃の好機を逸しそうになる失態が起きました。
一乗谷を手放し朝倉景鏡に手放される
信長は以前の「金ヶ崎の退却」の恨みを晴らすかのような猛烈な追撃を行い8月14日を迎えます。
義景は既にわずかな手勢しか残っておらず、いよいよ最期を迎えます。
経緯
8月15日
わずかな手勢で一乗谷城に帰還。改めて出陣命令を出すも朝倉景鏡以外参陣せず。
8月16日
義景は最期を悟り自刃しようとするも側近に止められる。
景鏡から大野郡にある洞雲寺に逃げようと説得され一乗谷城を脱出。
景鏡に伴われ洞雲寺に入る。
8月17日
平泉寺の僧兵に援軍を要請するも既に信長に寝返っており逆に洞雲寺が襲われる。
8月18日
織田軍が越前に侵入。市中を炎上させ、一乗谷城を制圧。
8月19日夕刻
義景は洞雲寺を捨て景鏡の勧めで賢松寺に入る。
8月20日早朝
賢松寺が景鏡の手勢200名に包囲される。
襲撃され朝倉義景は自刃(享年41歳)。
景鏡は信長に内通していた。
景鏡は討ち取った「義景の首」と義景の母(高徳院)や側室(小少将)、次男(愛王丸)らを捕らえて信長に差し出し降伏します。
信長の命令により丹羽長秀によって親族は護送中に殺害されてしまいます。義景の首は京都で獄門に晒されました。
以上の流れによって「朝倉家滅亡」となります。
ドラマではわずかなシーンでしたが、このような流れがあって朝倉義景は自刃して最期を迎えたのです。
ちなみに景鏡のその後も気になります、、。
朝倉景鏡はその後、信長に本領を安堵され名前も一字を拝領し「土橋信鏡」と改め、越前国の亥山城(いやまじょう)を得ます。
しかし1574年、朝倉家滅亡の翌年ですが、越前一向一揆に攻められます。
城を捨ててわずかな兵とともに平泉寺に逃げ込みますが、最期を覚悟したのか敵勢に切り込んで討ち死して果てました。
義景の逃亡と今の自分が重なり、また義景を裏切った天罰だと、運命を悟ったのかもしれません。
最後に
「麒麟がくる」では、賢松寺で景鏡に自刃を促されるシーンから始まって朝倉家滅亡の文字で終わっていましたね。
そう考えるとだいぶ端折られました。
実は、上記で紹介したような戦闘、逃亡劇が背景にあったわけです。
家中の統一が図れていないにも関わらず義景なりに「正義」を貫こうとする姿、そして最期の「朝倉宗家、、、朝倉義景じゃ!」というユースケさんのプライドがこの最後の戦闘からも伝わってくるのではないでしょうか?
史実の義景は、近親者を次々なくす不幸が重なり失意の挙句、側室の小少将と愛王丸を溺愛し政務を怠り遊興にふけったと言われます。
今回はそのようなイメージを覆すかっこいい義景像でした。
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そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!