「丹波攻略」とは?光秀の戦いを地図で紹介!母の人質にも迫る。
2023/03/25
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また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
『麒麟がくる』が終わってしまいました。
素晴らしい作品だったなぁ、と振り返っています。
さて、本記事では『麒麟がくる』の「丹波攻略」について紹介しようと思っています。
『麒麟がくる』では「丹波攻略」が、第43回(1月31日放送)で終わり、詳しく描かれませんでした笑
「そもそも、光秀の丹波攻略ってどんな戦争だったの?」という方もいらっしゃるのではないでしょうか?
そこで、地図を使いながら、「ああ、なるほど!」と感じていただけるよう、なるべく分かりやすく流れを紹介したいと思います!
また、本能寺の変を起こす動機になったと言われる有名な光秀の母人質事件も紹介します。
丹波攻略の地図とその背景
織田信長の命令で行われた明智光秀の丹波攻略。
時期は1575年から1579年で、5年間の長期戦となりました。
攻略する背景には、信長に従っていた有力大名「赤井直正」が反信長勢力になったことや、京都の隣国という重要な地域であること、中国進出の地盤固めであることなどが挙げられます。
ということで丹波攻略の重要なミッションは赤井直正の討伐で黒井城攻めです。
以下の地図は攻略前ですが大体の勢力が把握できると思います。
(赤い部分が敵(赤井側)です。青い部分が味方(光秀側)です。)
しかしこの丹波攻略は苦戦し、2度の遠征を強いられることとなります。
以下ではその2回の攻略を紹介します。
第一次丹波攻略を紹介!
最初の攻略は1575年〜1576年。
赤井直正の居城「黒井城」を攻め落とすことが目的です。
手始めに宇津頼重を攻めるも、そのあとは一気に黒井城を攻めます。
具体的な流れは以下です。
<1575年>
7月
明智光秀が宇津頼重を攻める
信長から越前への援軍要請があり光秀が戦線離脱
8月
明智軍が宇津頼重に反撃を受け一進一退
坂本城に一度帰還
信長が国人衆に朱印状を出して、波多野秀治(八上城)など大半を味方につける
10月
光秀が黒井城攻めに発進
反信長勢力の砦を撃破、宇津頼重敗走
黒井城を包囲!
(地図から分かるように四方から包囲、兵糧が尽きるのを待つのみ。、、、しかし!!!)
<1576年>
1月
波多野秀治が突如裏切る
波多野軍が黒井城の明智軍を挟撃、赤井忠家の追撃に遭い播磨を抜けて全軍退却
明智軍は京都に敗走
(まさかの事態が起こりました!)
これが第一次丹波国攻略(黒井城攻め)です。波多野秀治の裏切りがなければ攻略できたことでしょう。光秀も「来年の春には落城するだろう」と予測していたようです。
波多野氏が裏切った理由は、赤井氏との姻戚関係と反信長勢力である毛利氏との連携などです。信長の朱印状の返信には「赤井氏以外の国人衆は(信長に)降るので赤井氏討伐してほしい」と偽りを書いており、表面上信長に従い裏で赤井に同調していたわけです。
第二次丹波攻略を紹介!
1577年〜1579年。
一次攻略から1年半経ちました。
光秀は1976年1月に敗走しましたが、同年4月に本願寺攻めの援軍でも敗北。
そのせいか過労で倒れてしまいます。
回復するも同年に正室煕子が死去。
このころ不運が重なってしまいます(煕子はこちらを参照ください)。
1577年には「紀州討伐」や「信貴山城の戦い」にも参陣し松永久秀討伐後、本格的に丹波攻略を再開します(松永久秀の経歴はこちらを参照ください)。
今回は着実に攻略を進めます。
具体的な流れは以下です。
<1577年>
10月〜
籾井城など敵の砦を個別撃破しながら進軍
細川藤孝(幽斎)・忠興父子も参戦
<1578年>
3月
八上城(波多野秀治)と氷上城(波多野宗長)を包囲
赤井直正が死去、国人衆に動揺が広がる
直正の弟赤井幸家が指揮を執るが、明智軍に降る国人衆が増加
4月
羽柴秀長らも参陣
支城を次々撃破、八上城・黒井城黒の孤立化を進める
(地図上で亀山城が築城されていますが、軍事拠点とする城です)
光秀、並行して「三木合戦(播磨国)」や「有岡城の戦い(摂津国)」にも参戦(荒木村重はこちらを参照ください)
10月
丹波で反乱起きる
光秀は亀山城防衛のため三木合戦から戦線離脱
<1579年>
3月
金山城築城(八上城と黒井城を連絡を遮断)
5月
氷上城落城、波多野宗長は城に火を放ち自刃
6月
八上城落城、波多野秀治・弟秀尚は安土城下で磔
秀治の弟秀香が自城を捨て八上城に入り明智軍に抵抗
8月
秀香が城内で討死、波多野氏滅亡
光秀、計略を駆使し黒井城を攻撃
赤井幸家・甥の忠家らは敗れて城に火を放ち逃亡、赤井氏滅亡
以上が第二次丹波攻略でした。
一次と違って着実に攻め、調略や計略も駆使しており丁寧な様子がうかがえます。
また何と言っても戦況が大きく動いたのは赤井直正の死去。
反信長勢力が縮小するきっかけになりました。
それにしても光秀は丹波攻略をしながら、本願寺攻めや紀州討伐、加賀攻め、別所氏攻略(三木合戦)、荒木村重討伐(有岡城の戦い)と各地を転戦し多忙を極めました。
なお、地図にあった「大山城」は「金山城」に改修し、攻略後に横山城は福知山城に改修されました。
福知山城は明智秀満が城代に、黒井城は斎藤利三が城主になりました。
斎藤利三はここで福、のちの春日局をもうけます。
春日局が生活していた部屋が「喜多院」に現存しています。
光秀が母を八上城の人質に差し出す?
光秀が母を八上城の人質に出したという逸話があります。
これは本能寺の変を起こすきっかけとなった事件で、「本能寺怨恨説」のひとつです。
以下で紹介したいと思います。
光秀が八上城を包囲。兵糧攻めした上で「降伏するならば領地と地位を補償する。代わりに自らの母を人質に出しても良い」と講話を申し込みます。それに従い波多野氏は「光秀の母の人質」と引き換えに安土城に連れられますが、信長によって磔にされて殺されてしまいます。これを知って憤怒した八上城の城兵は、光秀の母を楼上で磔にして殺してしまいます。この事件で光秀は信長を恨み3年後の本能寺の変に繋がったとされます。(『総見記』)
また『常山紀談』には以下のように描かれています。
光秀は母を人質に出して、秀治らを城内から誘い出し酒宴に招きました。秀治らは伏兵に捕えられ安土城に移送。秀治は傷の悪化で道中に死亡、弟秀尚と従者11名は安土城下で信長により磔にされました。これを知った八上城の城兵は、光秀の母を磔にして殺してしまいます。
他にも似たような書物がいくつか伝わっています。
これらは「光秀怨恨説」の有名な逸話の一つとされます。
『麒麟がくる』では、母(牧:石川さゆりさん)は登場しませんでしたが、光秀が波多野兄弟の助命を条件に降伏させたにも関わらず、信長が磔にしてしまったため不信を募らせるシーンが描かれました。
「怨恨説」など本能寺の変の動機説についてはこちらを参照ください
光秀母の人質は創作?
上記で紹介した「光秀の母を人質に出したという逸話」。
光秀が信長を恨みに持った原因の一つとして取り上げられますが、実は信憑性に欠いた逸話のようです。
その根拠とは?
・史実の信憑性が低いとされる「軍着物」や「小説」、「逸話集」等にしか描かれていない(『総見記』、『絵本太閤記』、『常山紀談』ほか)
・史実との異なる点が多い
・光秀有利の状況で母を人質に出す理由がない
・『信長公記』(信憑性あり)には、「飢餓状態の城内から出てきた家臣を調略して秀治を降伏させた」とあるように、城内は飢餓状態で既に勝利目前であることからも光秀の母を差し出す必要性がない
などです。
ということで上記の逸話は創作で、江戸時代以降の読み物として人気だったと考えられます。
まとめ
地図を交えながら、明智光秀の丹波攻略を紹介しました。
足掛け5年にも及ぶ戦いは勝利あり敗北ありの泥沼戦でもありました。
その内容を以下にまとめました。
丹波攻略とは?
1575年〜1579年に行われた丹波平定のための戦争。信長の命令で明智光秀が指揮を取る
攻略の背景は?
裏切った赤井直正の討伐、京都の隣国の平定、毛利氏に対峙するための地盤固め
主なミッションは?
黒井城の赤井直正を討伐すること
結果は?
・黒井城を包囲するが波多野秀治の裏切りで敗北(第一次丹波攻略)
・赤井直正死去、八上城の波多野秀治を討伐、黒井城陥落、丹波攻略終了(第二次丹波攻略)
戦況は?
・信長の進出と後退(包囲網)、光秀の戦線離脱や敗北、赤井直正の死去などを背景に国人衆の敵味方が目まぐるしく変動したため、丹波攻略自体も一進一退
・第一次攻略は一気に黒井城突破を狙い失敗(波多野氏の裏切りがあった)
・第二次攻略は着実路線に切り替え、八上城・黒井城などを孤立化させた上で攻め落した
・光秀は丹波攻略と同時に各方面の援軍として転戦を繰り返した
記事には書いていませんが丹波国を平定すると丹後国も平定しました。そして信長から丹波一国(29万石)を与えられ合わせて34万石の大名になりました。
「光秀の母の人質」事件について
実際には包囲中の八上城に差し出した形跡がなく、またその必要もなかったことから、後世の創作と考えられます。
江戸時代以降、読み物として楽しまれたもののようです。
以上「丹波攻略」と「光秀の母の人質事件」について紹介しました。
光秀はこの後、南山城の領地も与えられ、追放された佐久間信盛の畿内方面軍を引き継ぎます。
信長から与えられた与力も含めるとなんと240万石の大大名となりました。
なお、筆者は明智光秀がライバルを出し抜いてでも畿内の支配権と家臣トップの地位を獲得しようと思っていたと考えています。(『麒麟がくる』の光秀蔵とは異なりますが、、、。)
その出し抜かれたライバルとは荒木村重や佐久間信盛で、それらを見事に蹴落としたのではないか、と推測しています。
以下のリンクでそれぞれ紹介しています。
人物の紹介に合わせて推測しています。興味ありましたらご覧ください。
荒木村重と有岡城の戦い、光秀の陰謀についてまとめています
佐久間信盛の追放と折檻状、また光秀の陰謀についてまとめています
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そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
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