古狸「徳川家康」幕末に迎えた最後!煮て焼いて食われた?
2023/03/25
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「あんたがたどこさ」という童謡を紹介します。
この歌は熊本県熊本市が発祥とされていますが、一方で埼玉県川越市が発祥とも言われます。
川越市を発祥とした場合、「幕末の徳川家の最後」を歌った内容に一変するのをご存知でしょうか?
「せんば山には狸がおってさー」の狸は、あの徳川家康を指しています。
家康が煮て焼いて食われる、、。怖い歌ですよね。
本記事ではこの興味深い童謡を、詳しく取り上げたいと思います。
熊本市とされる説、川越市とされる理由と内容、戊辰戦争の簡単な紹介、「徳川家の最後」を歌った歌詞の解釈、遊郭発祥の可能性などを紹介します。
目次
熊本発祥!肥後手まり唄「あんたがたどこさ」
有名な童謡「あんたがたどこさ」は、昔の子供たちが遊んだ手毬歌のひとつです。
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場(せんば)さ
船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠
|
懐かしいですね。
一般的に知られている「あんたがたどこさ」の童謡です。
歌詞は各地で多少異なるようです。
この歌は「肥後手まり唄」といって熊本県熊本市にある「船場」が発祥です。
熊本城からほど近い「船場橋」辺りに、昔小高い茂みがあり(土塁とも?)、そこが舞台と言われています。
現在の船場橋や洗馬橋駅、郵便局などにはタヌキの像があり、洗馬橋駅の市電の運行メロディーにもなっているようです。
川越にもあった!「あんたがたどこさ」
熊本県を発祥とする一方で、埼玉県川越市を発祥とする説があります。
もともと多くの研究者の間で関東が議論されています。
理由は、歌自体が関東の方言だということ。
太田信一郎氏『童謡を訪ねて』によると、幕末の新政府軍兵士と川越藩の子供たちの問答が歌になったとされています。
これは「戊辰戦争」(1868年~69年)の間の出来事です。
この説について詳しく見ていきたいと思います!
歌ができた背景 ー 徳川幕府の最後とは? ー
始めに、歌の内容がより分かるように簡単に「戊辰戦争」について紹介します。
ご存知の方は読み飛ばしてください!
江戸幕府は、徳川家康が1603年に開き、約260年間続いた長期政権です。
しかし幕末になるとペリーの来航(1853年)など海外からの圧力が強まります。
それに対し幕府が行なった開国や不平等条約は、日本の経済や治安を著しく悪化させました。
国内では、そんな幕府や外国を倒すため天皇を頂点にした新政府を作ろう(「尊皇攘夷」)という運動が起こります。
しかし外国に敗れた長州藩・薩摩藩らは幕府を倒すことに専念します。
幕府は圧力に屈しつつも平和的に収めようと、1867年、将軍徳川慶喜が政権を天皇に返上します(「大政奉還」)。
しかし新政府は徳川の権力を徹底的に削ごう(官位返上・領地返上)とし、それに耐えかねた幕臣たち(旧幕府軍)は蜂起し、1868年鳥羽・伏見で薩摩・長州軍ら(新政府軍)と戦争を起こします。
これが「戊辰戦争」の始まりです。
旧幕府軍はこれに敗れて、本拠地江戸城も無血開城、慶喜は蟄居となります。
新政府は江戸を東京とし「明治」に改元します。
ところが、徹底抗戦を目指す旧幕府軍は「彰義隊」を結成し最後まで抵抗します。
彰義隊から分離した「振武隊」も能仁寺で抵抗しますが壊滅。
新政府軍は残党狩りのように徹底的に旧幕府軍を追い詰め、最後は五稜郭で殲滅します(1869年)。
これで戊辰戦争は終結し新しく明治政府が出来上がります。
これが「戊辰戦争」です。その後半部分。
振武隊を倒すために川越城に進駐した新政府軍兵士との歌になります。
「幕末の徳川家の最後」を唄う「あんたがたどこさ」の解釈
上記「戊辰戦争」を踏まえて、川越が発祥とする「あんたがたどこさ」を解釈しようと思います。
あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場(せんば)さ
「皆さんはどこからいらしたのですか?」
「肥後だよ」
「肥後のどこですか?」
「熊本だよ」
「熊本のどこですか?」
「船場だよ」
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船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠
「せんば山(=仙波山)には狸(=家康)がいてね それを猟師(=新政府軍)が鉄砲で撃ってね(=攻撃して) 煮てね、焼いてね、食ったんだよ(徹底的に叩き潰して) それを木の葉でさらりと隠して(=何事もなかったように消し去って)」 |
という解釈になります。
以下で前半部分と後半部分の詳細を解説したいと思います。
【前半部分】1868年5月頃にできた歌?
前半部分は新政府軍の兵士と川越藩の子供の問答です。
人懐っこく聞いている感じが可愛らしいです。
兵士は肥後藩(熊本藩)の船場から来ていることがわかります。
新政府軍はこの後、川越藩(既に新政府軍に降っている)と一緒に能仁寺(埼玉県飯能市)の振武隊を攻めます(「飯能戦争」1868年5月23日)。
そう考えると「あんたがたどこさ」は1868年5月辺りにできたのではないか?と推測します。
前半と後半に分けたのは、ここで一呼吸置くからです。
前半部分は問答ですが、後半部分は子供が1人で最後まで話しています。
【後半部分】徳川家の最後を歌う
後半部分は「徳川家が徹底的に潰される」ことを唄っています。
子供が兵士に向かってひとりでしゃべっています。
「仙波山」は、川越城下にある「仙波古墳群一帯」を指しています。
「狸」は、その体型や狡猾さから古狸と呼ばれた「徳川家康」。
徳川家康は徳川幕府を作った祖ですね。
仙波山には、家康を祀った「仙波東照宮」があり、それを指して「仙波山には狸(=家康)がいてね」と唄っているのです!
その家康を「鉄砲で撃って、煮て、焼いて、食う」とは、将軍職を返上したにも関わらず、徹底的に権力を剥ぎ取って兵力を叩き潰し二度と復権できないようにしたことを指しています。
とはいえ、家康は約260年間「東照大権現」という神様として崇められていましたので、天罰が下らないよう倒幕はなかったことに、あるいは鎮魂の意味で「木の葉でさらりと隠」しました。
以上のように考えます。
「あんたがたどこさ」に隠された意味に驚きますよね?
まさか幕末の徳川家の最後を歌っているとは、、。
次では、さらに踏み込んで推測したいと思います。
「仙波東照宮」は、日本三大東照宮の一つで、徳川家康の側近「南光坊天海」が祀ったものです。
仙波東照宮の詳しい紹介(「喜多院」の紹介)はこちらを参照ください。
「あんたがたどこさ」の発祥は遊郭?
川越説の「あんたがたどこさ」は、川越城下が舞台とされた歌ですが、1868年5月辺りに出来たと推測しました。
またその内容は、「幕末の徳川家の最後」を歌ったものだと紹介しました。
そしてさらに踏み込むと、筆者は「遊郭に住む子供たちから発祥したのではないか?」と思っています。
そのヒントは「手鞠歌」にあります。
手鞠歌は以下のように説明されます。
・少女たちが手まりをつきながら歌った童話、遊び歌の一種・江戸時代から遊郭などには手毬歌なるものがあった(出典:Wikipedia)
「遊郭」とありますね。
「手鞠歌」は主に明治時代中期以降の庶民に流行したようですが「遊郭」では既に江戸時代からあったようです。
これを信じて、江戸時代末期に手鞠歌「あんたがたどこさ」が出来たとすると、それは遊郭が発祥かもしれません。
兵士が遊郭に寄った際、そこに住む子供とおしゃべりをして、その会話が手毬歌に変えられた可能性があるのではないでしょうか。
そう考えるとかなりセンスのいい絶妙なトークと言えます。
しかし、川越城下にそもそも遊郭などあったのでしょうか?
実は、「喜多院」のすぐ裏手(西小仙波町)に遊郭が存在していました。
大正・昭和にかけて随分流行したようです(廃娼の県と言われますが)。
江戸時代の存在は不明なのですが、当時からあったとすれば遊郭で発祥した可能性が考えられます。
まとめ
手鞠歌「あんたがたどこさ」の川越説を中心に紹介しました。
筆者の推論も含めながらの紹介でしたが、可愛らしい童謡が、まさか「徳川の最後」を歌ったもで驚きだったのではないでしょうか?
以下に今回の内容をまとめたいと思います。
「あんたがたどこさ」のまとめ
・「手まり唄 あんたがたどこさ」の発祥は、熊本県熊本市の船場地区
・「船場山」とは、船場付近にある小高い茂み(土塁とも)を指す
・言葉が関東の方言ということもあり関東説が以前から存在
・川越説は、埼玉県川越市を発祥としている
・川越説では、幕末の新政府軍兵士と川越城下の子供との問答(会話)を発祥としている
・川越説は、暗に徳川幕府の最後を歌った内容である(※詳細は以下)
・出来上がった時期は、飯能戦争の1868年5月頃ではないか?
・作って歌ったのは「喜多院」裏手の遊郭に住む子供ではないか?
徳川幕府の最後を歌った内容
「皆さんはどこからいらしたのですか?」
「肥後だよ」
「肥後のどこですか?」
「熊本だよ」
「熊本のどこですか?」
「船場だよ」
「仙波山(=仙波東照宮)には狸(家康)がいてね、
それを猟師(=新政府軍)が鉄砲で撃ってね(=攻撃して)
煮てね、焼いてね、食ったんだよ(徹底的に叩き潰して)
それを木の葉でさらりと隠して(=何事もなかったように消し去って)」
幕末の血生臭い動乱の記憶は、明治・大正・昭和にかけて、子供たちの可愛らしい手鞠歌に隠されながら広まりました。
徳川家康と盤石な江戸幕府を築いた南光坊天海。天海には「天海=明智光秀説」があり、大河ドラマ『麒麟がくる』でもその可能性を残して終わりました。以下では「天海=明智光秀説」について、『麒麟がくる-番外編-』の可能性などについて紹介しています。
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また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!