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明智光秀の妻はどんな人?愛に始まり、愛に終わった煕子の人生!

2023/03/25
 
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
明智光秀の妻である「煕子」を紹介します。
 
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では木村文乃さんが演じられましたね。
 
可憐でありながらも芯を強く持った女性、光秀を強くしなやかに支えた煕子でした。
 
木村さんは煕子を「妖精のようなふわりとした存在でありながら戦国時代の妻として芯を持った女性」と捉え演じてらっしゃったようです(『「麒麟がくる」公式Twitter』より)。
 
そんな「煕子」について、本記事では、煕子とはどんな人物だったのか?、煕子の生涯について、明智光秀と煕子の愛情の深さについて紹介したいと思います。
 
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「明智家との関係」と「煕子」の名前について

煕子は明智光秀の正室となった女性で、妻木範煕の娘です。
 
妻木氏は土岐氏の庶流であり同じ土岐氏の明智氏とは血縁関係にあります。
 
光秀の叔父とされる妻木忠広は光秀の家臣として働きました。
 
また「煕子」という呼び方は現代の呼び方(父が範煕であることから)で、「お牧の方」や「伏屋姫(ふせやひめ)」などという名で物語に出てきます。
 
それも俗称であり、結局のところ実際の名前は伝わっていません。
 
「牧」という名は『麒麟がくる』では光秀のお母さんでしたね。
 
「牧」の名は実は光秀の正室の名だったとの説もあります。
 

煕子の出生と光秀との関係

1530年に妻木範煕の娘として誕生します。
 
明智家とは縁者であることから、光秀とは幼い頃から馴染みだった可能性があります。
 
お互いの家系や年齢などから結婚が成立したと考えられますが、それだけではなくお互い愛情を持って結ばれたとも言えます。
 
その一例を紹介します。
 

光秀が「あばた」のできた煕子を妻に迎える

煕子は婚前に疱瘡(天然痘)にかかってしまいます。
 
これは致死率が20%〜50%の危険な病気でした。
 
なんとか完治するも左頬に痘痕(あばた)が残ってしまいます。
 
あばた

あばたの例(塩田三郎氏)|出典:Wikipedia

 
煕子は、「あばたが残った自分が妻になっては申し訳ない」と光秀を思って結婚を辞退しました。
 
ところが、光秀はそんな辛い思いをしている煕子を選んで結婚しました。
 
光秀の煕子に対する愛情は、決して容姿ではなく、通わせていた心だったのです。
 
実は、煕子の父範煕も心苦しく思ったようで、容姿のよく似た煕子の妹「芳子」を代わりに差し出したとも言われます。
 
しかし、光秀は「煕子」を選びました。
 
光秀と煕子の2人の愛がはっきりと実を結んだ瞬間でした。
 
ちなみに結婚した時期は、1553年、1545年、1550年と諸説あります。
 

光秀が身重な煕子を背負って逃亡

光秀と煕子は強い絆で結ばれました。
 
そのふたりに待ち受けるのは戦国時代の厳しい現実でした。
 
しかしふたりはそんな苦境においても力を合わせ、深い愛情で危機を乗り越えていきます。
 
1556年、美濃国の実質的権力者だった斎藤道三が嫡男義龍に敗れると、道三に味方した明智家も攻められ明智城が落城します。
 
光秀は「明智家」が生き残るために越前に家族らと逃亡します。
 
実はその時、妻煕子は長女を身ごもっていました。
 
光秀は、そんな身重な妻を背負って落ち延びていったといわれます。
 
ちなみに織田信長の正室帰蝶は、斎藤道三が敗れた1556年辺りで歴史から姿を消しています。詳しくはこちらを参照ください。▶︎『織田信長の正室「帰蝶(濃姫)」ー謎だらけの最期を紹介!ー』
 

妻が髪を売って光秀を助ける

越前では守護大名朝倉義景の元に身を寄せます。
 
家臣ではなかったため日々の暮らしは厳しかったといいます。
 
ある時光秀が、連歌会の酒宴がありその費用が捻出できず悩んでいました。
 
そこで煕子は自分の髪を売って資金にさせたのです。
 
出家するわけでもないのに武家の妻が髪を切って、またそれを売るという行為は深刻な出来事でした。
 
煕子の一家を支えようとする心の強さと光秀への愛を感じるエピソード。
 
光秀は胸を締め付けられる思いだったのではないでしょうか。
 

光秀の躍進で妻煕子を助ける

光秀はそれがきっかけで奮起したのか、その後大躍進を遂げていきます。
 
煕子の強い信念と愛を受け止めて、今度は恩返しをするのだと。
 
光秀はその後、足利義昭や織田信長の元で活躍します。
 
そして信長から5万石の領地を与えられ、1573年「坂本城」を完成させ城持ち大名にまで出世しました。
 
苦労させた煕子にやっと安らげる場所を贈って恩返しすることができたのです。
 
因みに越前に滞在していた1563年には、三女「たま」を産んでおり、後の細川忠興の妻、細川ガラシャになります。
 
身を寄せていた越前朝倉氏も織田信長に滅ぼされました。『麒麟が来る』で描かれなかった朝倉義景の最後を紹介しています。
 

過労で倒れた光秀を看病する

坂本城に根拠を構えた明智光秀は1575年から丹波攻略に着手しますが、1576年1月に波多野氏の裏切りで敗走することになります。
 
明智光秀の丹波攻略は地図付きでこちらで紹介しています。
 
4月には石山本願寺攻めに参戦しますが、5月に味方部隊が敗れ光秀は包囲され窮地に陥ります。
 
信長の援軍によって脱しますが過労がたたって倒れてしまいます。
 
明智光秀 肖像画

明智光秀(出典:Wikipedia)

 
かなり重症で死亡したという噂も流れるくらいだったようです。
 
煕子は吉田兼見(細川藤孝の従兄弟)にお願いし病平癒の祈祷を行いました
 
光秀は、煕子の献身的な看病を受けたことや、京都の名医「曲直瀬道三(まなせどうさん)」の治療もあって、9月に回復することができました。
 
しかし、心労が祟ったのか、、、
 
今度は妻の煕子が倒れてしまいます。
 

光秀沈痛、妻煕子の死

10月、献身的な看病がたたり煕子自身が倒れてしまいます。
 
今度は光秀が吉田兼見に祈祷を依頼しました。
 
その甲斐あってか煕子は快方に向かいます。
 
11月2日には兼見が煕子を見舞うために光秀と面会しています。
 
以上は『兼見卿日記』に書かれた内容で、煕子は助かっています。
 
しかし『西教寺過去帳』には「11月7日死去」となっており、煕子が死去したと書かれています。
 
これはどういうことでしょうか?
 
『兼見卿日記』には正室の煕子が死去した記述はないのですが、本能寺の変以前に死亡したというのは有力な説のようです。
 
享年46歳と言われます。
 
11月7日に亡くなったとしたら、光秀は悔しかったことでしょう。
 
自分のためにいつも必死になってくれる妻に、もう恩返しすることが叶わなくなったのですから。
 
光秀は当時風習のない先立った妻への葬儀参列に参加しています。
 
光秀の無念と深い愛が伝わります。
 
なお、『明智軍記』には煕子が本能寺の変後まで生きて、坂本城で死亡したと描かれています。
 

最後に

明智光秀の正室「煕子」について紹介しました。
 
その人生は光秀を献身的に支えて出世を成し遂げさせた素晴らしい女性。
 
光秀もそんな煕子を愛し続けました。相思相愛と言えるでしょう。
 
最期は諸説あるものの光秀を残してこの世を去ります。
 
光秀は精神的な大きな支えを喪失しました。
 
光秀はその後、大きく開いた穴を埋めるかのように、東西南北飛び回ってがむしゃらに働いていきます。
 
次では、(光秀と妻煕子の愛を紹介しながらも矛盾を感じるのですが)光秀の5人の側室の紹介、『麒麟がくる』に登場する「駒」と「東庵」の史実モデルの検証を紹介したいと思います。
 
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