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本能寺の変の真実か?光秀の当日までの行動が明らかに!

2021/07/31
 
光秀の本能寺行動 トップ画像
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
以前の記事(2021.1.6)で、明智光秀が起こした本能寺の変について、「新説の発表」を紹介しました。
 
前日までの行動や当日の行動など新しい情報が解読されて衝撃的な発表でした。
 
その新説の内容に驚き、興奮した方も多かったのではないでしょうか!
 
その3週間後、朝日新聞で詳細な情報が記載され、よりリアルな行動に触れることができたため、追加情報として紹介したいと思いました。
 
謎が多い本能寺の変について真実を知りたい方もお多いと思います。
 
さっそく、光秀の当日前夜から当日までの詳しい行動を見てみましょう!
 

本能寺の変の新説とは?

最初に、本記事を読み進めるために、基本的なポイントを以下に紹介します。
 
『乙夜之書物(いつやのかきもの)』の解読
・史料の中の「本能寺の変」に関する記述が一部分解読された
 
・本能寺の変から87年後にまとめられた文書
 
・本能寺の変に参加した斎藤利宗(斎藤利三の三男、当時16歳)が語った内容
 
 ・門外不出だった文書で信憑性が高いとされている
 
本記事で詳細を紹介する内容
「告白シーン」= 光秀の前日の行動、「織田信長を討つ」と斎藤利三に告白したシーン
 
「鳥羽に待機」= 本能寺の変当日の行動、光秀は鳥羽に待機して直接攻め込んではいなかった
 
これから紹介する「告白シーン」と「鳥羽に待機」は、前回の記事よりずっと詳しい内容になります。
 

「告白シーン」ー光秀前日の行動についてー

「信長を討つ!」と重臣たちに告白したのはいつだったのでしょう?
 
前記事で4つの史料で比較しましたが全部バラバラでした。
 
以下は『乙夜之書物』にある「前日のお昼に斎藤利三に告白したシーン」を紹介します。
 
【大意】光秀は中国地方で毛利勢と戦う羽柴(のちの豊臣)秀吉への援軍という名目で自軍の兵を亀山城へ集めた。利三は6月1日昼ごろ、兵を引き連れて亀山城に到着。光秀は城の入り口で利三を出迎え、一緒に城内の奥にあったとみられる数寄屋に入った。利三は光秀から謀反の決意を告げられる。利三が「先鋒は私が引き受ける」と伝えると、光秀は喜び、勝手口に控えていた左馬助を呼び、「皆同じ気持ちだ」と述べ、左馬助は「めでたいことと存じます。」と応じた。光秀が「暑いので何かないか」と言うと、冷やした道明寺(飲み物か?)が供された。すずり箱と熊野牛玉の宝印が押された料紙が出され、同席の武将は自らの血で誓詞血判状を書いた。その後、光秀は軍勢を率いて、日暮れ前に亀山城を出発した。(『朝日新聞朝刊(2020.1.29)』より抜粋)
※「左馬助」は明智秀満です。明智弥平次とも名乗っています。
 

「告白シーン」の考察

いかがでしたでしょうか?臨場感ありますよね。
 
いろいろ感じることがあると思いますが、筆者が重視したいポイントは2つあります。
 
・告白されたのは利三が最後だった点
史料によって告白シーンに登場する重臣が人数がバラバラですが大体4、5人です。利三は確実に参加していますが、『乙夜之書物』では最後に告白されています。このことから、光秀は最初に近親者に告白していたと考えられます。
 
・利三が積極的な点
利三が「先鋒隊を引き受ける」と積極的な態度を示しています。「忠臣だったから」とも言えますが、利三も信長を恨んでいたと推測します。根拠は、信長の「長曽我部氏政策の反故」です。利三・光秀が丁寧に続けていた蹂躙政策を、信長が突如討伐に切り替えてしまいました。そのため利三の義父(元幕臣)・義妹(長曽我部元親の正室)・母の縁者(蜷川氏)らが仕えている長曽我部氏が攻め滅ぼされることになったのです。利三の心中は信長への怒りで満ちていたのではないでしょうか?
 

「鳥羽に待機」ー光秀当日までの行動ー

本能寺の変というと、どんなシーンを思い浮かべますか?
 
光秀が「敵は本能寺にあり!」と号令をかけて本能寺に辿り着き、一気に攻めかかるシーンを見かけますよね。
 
それが真実ではないかもしれない!?
 
『乙夜之書物』では、光秀は突っ込まず「鳥羽で待機していた」と記録されているのです。
 
衝撃的ですよね。
 
【大意】(軍)は夜中に桂川の河原に到着し、そこで光秀は兵糧を使うように命じた。その際、「(信長のいる)本能寺に取り掛かるので、その心づもりでいるように」と物頭が軍勢に告げたため、皆、勇み立った。本能寺へは明智弥平次秀秀満と斎藤利三が2千余騎を率いて向かい、光秀は鳥羽で待機した。(『朝日新聞朝刊(2020.1.29)』より抜粋)

「鳥羽に待機」の考察

他の史料からも夜の行軍だったことが分かるのですが、「桂川での休憩の有無」や「兵たちへの本能寺討ち入りの伝達の有無」は記述がバラバラなのです。
 
何も告げられなかったとする資料では、「兵たちが「家康を討つのか?」と噂しあいながら本能寺に向かった」と記述があったります。
 
そのため、この辺りの光秀の行動記録は貴重な情報です。
 
しかし一方で、山崎の戦いの直前、6月9日にも光秀が鳥羽に陣を張っていたと『兼見卿記』(吉田兼見)や『晴豊卿記』(勧修寺晴豊)に記録されており、それと混同した可能性も指摘されています。
 
なお、上記文書の「夜中」とは「深夜」です。
 
『乙夜之書物』が真実であれば「光秀が待機していた」という点も含め多くが解明されることになります。
 

まとめ

臨場感を感じる文書で興奮しますよね?
 
本能寺の変において、光秀の前日から当日に向かう行動がかなり掴めるようになりました。
 
解読頂けたおかげです。
 
『乙夜之書物』が真実とは言い切れないものの、多くの方が信憑性に期待していらっしゃいます。
 
筆者もさらに解読が進むことを期待しています。
 
また、本能寺に討ち入りした直後のシーンについては次の記事で紹介します。
 
次の記事:「明智軍と信長の激戦」と「信長が女房たちを逃すシーン」の詳細を紹介しています。
 
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