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帰蝶(濃姫)は最期はいつ、どこだった?謎だらけの人生を解説!

2021/07/31
 
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
こちらでは、織田信長の正室だった「帰蝶(濃姫)」の最期について紹介します。
 
大河ドラマ『麒麟がくる』では川口春奈さんが演じられました。
 
「第40回:松永久秀の平蜘蛛」では光秀に「(安土城から)美濃へ帰ろうと思う」と表舞台からの引退を伝えました。
 
そのシーンについて公式Twitterでは以下のようにコメントされていました。
「暴走している信長を見て、帰蝶は責任を感じているんじゃないかなと思います。これまで信長を支えたり、けしかけたり、裏でプロデュース的なことをやってきたのは自分なので。ここで離れることで、何かが変わるかもしれない。そんな思いで去ったのではないでしょうか」(川口春奈)
しかし第43回では、1579年に再び登場しました。「信長様に毒を盛る」という恐ろしい発言をしてSNSで沸きました。
 
 
では史実の帰蝶(濃姫)は、実際この頃どうしていたのでしょう?
 
実は、「史料が残されていない」ので一切分からないでのです!
 
帰蝶(濃姫)は人生のほとんどが謎に包まれていて、いつ、どこで亡くなったのかも分かっていません!
 
天下の織田信長の正室なのに?と思いますよね、、、。
 
本記事では、「帰蝶(濃姫)について残されている史料」から生きていた証拠を確認し、帰蝶(濃姫)がいつどこで亡くなったのか、「最期にまつわる色々な説」を紹介したいと思います。
 

名前は帰蝶?濃姫?

初めに名前を統一しておきたいので「名前」について解説します。
 
「帰蝶(濃姫)」と紹介したように「帰蝶」も「濃姫」も同一人物です。
 
名前は「帰蝶」で、結婚後が「濃姫」です。
 
名前は「帰蝶」の他に「胡蝶」とも伝わっています。
 
「胡蝶」は「蝶」のことです。「胡蝶」は古くを辿ると、源氏物語の第24帖(宮中で蝶をかたどった衣装を着った童女が舞いを披露する)の巻名があります。筆者は、「蝶のような優雅な女性」という意を込めて「古典」から取って「胡蝶」と名をつけたのではないかと想像します。
 
「帰蝶」は「蝶が帰る」ということ。深読みすると「嫁いだ女性が帰る」ともなり、名付において不吉な気がします。
 
ちなみに「胡蝶」といえば、『鬼滅の刃』の「胡蝶しのぶ」を想像しませんか?笑
下記では胡蝶しのぶの由来についても「蝶」からイメージを考えています。
「濃姫」は「於濃(おのう)の方」とも言われますがどちらも江戸時代の後世に付けられた呼称です。
 
また「鷺山殿(さぎやまどの)」という名前があり、これは尾張の信長に鷺山(父道三が依拠した地名)から嫁いだことからの呼称です。ドラマでの中でも「昔いた鷺山の麓の館で暮らそうと思う」と光秀に打ち明けていました。
 
いろいろありますが、こちらでは「帰蝶」で統一したいと思います!
 

帰蝶に関わる最後の史料とは?

帰蝶に関わる史料は、なんと「信長との結婚」で終わっています!
 
詳しく見てみましょう。
 
帰蝶は斎藤道三の娘で、2度の政略結婚をしていますが、すでに不明点だらけです。
 
1度目(1546年)
土岐頼純と斎藤道三の娘が結婚。「娘=帰蝶?」と推測されている。帰蝶12歳。
頼純が戦死後、実家に帰ったとされる。
 
2度目(1549年3月23日)
織田信長と帰蝶の結婚。帰蝶15歳。明智光安が仲人を務める(『美濃国諸旧記』)
※『信長公記』によると、「交渉は平手政秀が取りまとめた、相手は道三娘(帰蝶か不明)」とあり、時期は不明。
 
『信長公記』は史料として信憑性が高いのですが、『美濃国諸旧記』は信憑が高く無い史料のようです。
 
『美濃国諸旧記』ではこれを最後に「帰蝶」の記録は途絶えます。1556年に道三が死亡しますが、道三が残した遺言の中にも帰蝶は登場していません。
 
亡くなっていたのでしょうか?
 
『信長公記』もこれ以降「帰蝶」は登場しません。
 
ただ、『勢州軍記』などには「帰蝶は嫡男に恵まれなかったため、側室が生んだ奇妙丸(後の信忠、1557年誕生)を養子とし嫡男とした。」と書かれています。しかしながらこれも信憑性に乏しいとされています。
 
そして帰蝶が斉藤家の菩提寺「常在寺」に「道三の肖像画」を寄進したという寺伝が残されており、これを最後に歴史から姿を消してしまいます。
 
 
その時期も不明ですが、道三の没年が記載されていることから1556年以降ということは分かります。
 
道三肖像画

斎藤道三肖像画(出典:Wikipedia)

 
直接的な史料はこれだけです、、。
 
本当に不思議です、、。信長の正室なのに。
 
しかしこのほかの史料などからも江戸時代には信長の正室が帰蝶だったことは一般的に認知されていたようです。
 
以上が一般的に確認できる帰蝶についてです。
 
 
そしてこれら以外に、軍記物や日記を根拠として「帰蝶」に関する諸説が残されていますので、次から紹介しようと思います。
 

「帰蝶死亡説」ー帰蝶は若くして亡くなっていた?ー

早い段階で死亡したという説が2つあります。
 
いつ亡くなったのか、その時期で異なります。
 
一つは、帰蝶は20歳前後で死亡している、という説です。
 
1554年辺りですね。
 
信長が尾張国内で覇権を争っている頃です。
 
当然嫡男はいません。
 
世に帰蝶に関する史料が残っていないために、この頃亡くなっていたのでは?とされる説です。
 
「道三の肖像画の寄進」は矛盾してしまいますが理にかなっているような気もします。
 
もう一つは、30歳以前に亡くなっていた説です。
 
信長が斎藤家当主龍興に対し、「故義龍の娘「馬場殿」を側室にしたい」と言ったところ「信長の亡き妻(帰蝶)の姪に当たる馬場殿を差し出すものか」と跳ねつけた、という逸話があります。
 
つまり帰蝶は龍興が滅亡する1567年以前には亡くなっており、信長も正室を迎えていることになります。
 

「帰蝶戦死説」ー信長と本能寺の変で戦死!ー

まさかの「戦死説」です。
 
本能寺の変で薙刀を奮って戦い、戦死したという説です。
 
説と言うより創作かもしれませんが。
 
本能寺の変画像

本能寺焼討之図(出典:Wikipedia)

 
また帰蝶の「遺髪」を美濃に持ち帰り埋葬した(濃姫遺髪塚)と言う伝承もあるようです。
 
そもそも信長は本能寺で女房衆を逃しているので、もし帰蝶が残って信長と一緒に戦っていたら驚愕の事実です!
 
『乙夜ノ書物』が解読されつつあるので解明に期待したいと思います。
 
本能寺の変の新説(『乙夜ノ書物』の解読の発表)はこちらを参照ください。

「帰蝶生存説」ー信長よりも生きた?ー

生存説はいろいろあります。
 
帰蝶が、いつまで、またどこで生きていたのか?諸説あるため以下で紹介します。
 
ただし「帰蝶」の名称も様々で、正室ではなく側室や後室(未亡人)の可能性もあるため信用できるかは疑問です。
 
・「信長本妻」=帰蝶?
1569年、信長が斎藤義龍の後家(近江の方)に茶器を差し出すよう迫った際に「信長本妻」がこれを庇ったと残されています(『言継卿記』より)。信長本妻=帰蝶であれば1569年に生存していた可能性があります。
 
・「北の方」=「御台」=帰蝶?
本能寺の変が起き、安土城にいた帰蝶が落ち延びたという説です。『総見院殿追善記』には「北の方」が落ち延びた、『氏郷記』には「信長公御台君達などを逃した」と記述があり、「北の方」も「御台」も帰蝶を指しているとしています。
 
安土城

安土城(出典:Wikipedia)

 
・「信長内室」=帰蝶?
尾張平定後の祝いの席において「信長内室が家臣団に感謝してたくさんのアワビなどをもてなした」と、『明智軍記』にあります。「信長内室」が帰蝶であれば、1565年頃生きていたことになります。
 
・岐阜城に正室御殿があった?
平成28年に岐阜城の信長居館跡から金箔の瓦が見つかりました。これは2階部分が正室の御殿だったことの証明と主張されました。事実であれば、1567年辺りでも帰蝶が生きていたことになります。
 
・信長の一周忌を主催した?
1583年、信長の一周忌を「信長公夫人」が主催した、と『妙心寺史』に記録されています。信長の側室が何人かいるため「帰蝶」と断定はできませんが可能性はあります。1583年は生きていたことになります。
 
・信長死後も生きていた?「あつち殿」=「安土殿」=帰蝶?
信長の次男の織田信雄が1587年頃の家族や家臣団をまとめた『織田信雄分限帳』に「あつち殿」の名があり、これが「帰蝶」だと指摘されています。1587年頃に生きていたことになります。
 
・天寿を全うし78歳で死去?
安土聰見寺(あづちそうけんじ)に帰蝶の法名が記録されており、養華院殿要津妙玄大姉慶長十七年壬子七月九日 信長御台とあり養華院は帰蝶を指します。要するに帰蝶は慶長17年7月9日(1612年8月5日)まで生きており、78歳で天寿を全うしたことになります。
 
『麒麟がくる(総集編)』では帰蝶がナレーションらしいです!
 
1587年説や1612年説を採用して過去を振り返るような演出になるのでしょうか。
 
寺
 
以上が主だったものです。
 
このように羅列すると帰蝶の寿命が20歳〜80歳前後と幅広く推測されていることがわかります。
 
結局のところ、早期死亡説、戦死説、生存説どれをとっても通説はありません。
 
帰蝶が、いつまで生きていたのか?また最後はどこで亡くなったのか?
 
想像の域を超えません。
 
ちなみに明智光秀も実は生き延びたという伝承があります。詳しく以下でまとめています。

最後に

ということで、「帰蝶の最期」について紹介しました。
 
なんと言っても史料が不足しすぎており、帰蝶の人生は分かりません!
 
最後に上記以外に以下も紹介します。
 
斎藤道三が敗死したことで帰蝶の利用価値が無くなったことと、7年も嫡男に恵まれず側室に嫡男ができたことから、美濃に返された。帰蝶は母の実家の可児郡明智城に引き取られたが、斎藤義龍によって攻められ明智氏は滅亡。城主明智光安や妻が自刃していることから自らも自刃、もしくはどこかへ落ち延びたか。
 
これもなるほどとは思いますが推測の域を超えません。
 
織田信長の正室なのにも関わら不思議です。何度も言いますが笑
 
何か大きな問題があって歴史から抹消されたのかと疑ってしまいます。
 
『麒麟がくる』では、第43回において帰蝶が「信長に毒を盛る」と発言しました、、。
 
「帰蝶黒幕説」なんて?と思っていましたが、その時はあながちあり得なくもないか、とも思ってしまいました。
 
帰蝶がいつまで生きていたのか?最後はどこで亡くなったのか?歴史は闇の中。
 
歴史の解明が待たれます。
 
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、「天海=光秀説」として「番外編」の可能性を感じています。願いを込めて以下でまとめています。
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