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明智光秀は生きていた?ゆかりの寺院やお墓に伝わる伝承とは。

2023/03/25
 
光秀生存 トップ
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
大河ドラマ『麒麟が来る』が終わってしまいました。
 
「明智光秀は生き延びた?」という可能性を残して終わりましたね。
 
通説を覆すなかなかの奇策。
 
通説では「山崎の戦い」の後、死亡したことになっており、これが一般的な見方です。
 
ただ、実は「光秀は生きていた」という伝承が実際に各地に残っているのも事実、、、。
 
そんな光秀の生存をうかがわせる伝承って気になりませんか?
 
ということで、本記事では、光秀が死亡したという通説と、「生きていた」とされる理由、根拠として伝わる数々の伝承を紹介したいと思います。
 
紹介する伝承には、有名な「光秀=天海説」に結びつくものもあって想像が掻き立てられますよ!
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通説ー明智光秀は落命し、首が晒されたー

まずは「通説」から紹介します。
 
1582年6月13日、明智光秀は勝竜寺城からわずかな共を連れ、坂本城を目指して脱出します。
 
しかし小栗栖で落武者狩りに遭遇して殺害されてしまいます。
 
竹林
 
あるいは深傷を負ったため自刃したとも言われます。その際、介錯を務めた溝尾茂朝が身の危険から光秀の首を山中に秘して去りますが、翌日発見されて秀吉軍に届いたとされます。
 
『兼見卿記』によると、14日に首が発見された後、本能寺に3000人の首と共に晒され、その後首と胴体がつながれて粟田口で斎藤利三の遺体と共に晒され、24日粟田口付近に2人の首塚が築かれたということです。
 
これが、光秀が死亡したと言われる通説です。
 
光秀と一緒に磔になった重臣「斎藤利三」についてはこちらで詳しく紹介しています。
 

疑惑!?晒された首は光秀だったのか?

通説から考えると、光秀が生きていたとは思えないですよね。
 
ですが、晒された光秀の首は、本当に光秀だったのか?という疑惑もあるのです。
 
一説には、落武者狩りから提出された首は3つありました。
 
夏の時期でどれも腐敗が進んでおり、本当に光秀かどうか判別できなかったようです。
 
そして全部を光秀の首としたと言われています。
 
秀吉にとって「本当に光秀の首かどうか」という捜索よりも、「光秀を討ち果たしたのは羽柴秀吉」と世に宣言して大勢を決することの方が先決でした。
 
そのような状況や背景があったことから、「晒されたのは実は他人の首で、光秀本人は生き延びた」と言われるようになりました。
 

光秀の生存伝承「ゆかりの寺院5つ」を紹介

確かに曖昧な首実見だったかもしれませんが、それだけで生存していたとも言い切れません。
 
では、光秀が逃亡したと分かるような証拠はあるのでしょうか?
 
実は各地に生存したことを伝える伝承があります。
 
ここでは、光秀の生存伝承にゆかりのある寺院等、5つを紹介したいと思います。
 
京都のお寺 不吉
 

専修院(京都府宇治市)に逃げ込む

光秀は勝竜寺城を脱出して専修院に逃げ込みました。
 
寺の竹藪で隠れていたところ、住職に見つかりますが、住職は光秀を匿いました。
 
光秀は深く感謝し「歯痛や頭痛の際には必ず治るであろう」と言い残して出て行ったそうです。
 
光秀は逃げ延びてきて、また去って行ったようです。
 
歯痛や頭痛については、光秀に医学の知識があったため、いずれ恩返しをするつもりで言ったと推測されています。
 

神明神社(京都府宇治市)に逃げ込む

こちらは神社ですが、光秀が山科に向かう途中、神明神社境内の藻隱池・藻隱井戸に逃げ込んで、匿われたと言われます。
 
さて、専修院と神明神社の伝承を両方信じた場合、勝竜寺城→専修院→神明神社→小栗栖→山科→坂本光秀逃亡ルートが浮かび上がってきます。
 
小栗栖で殺害された定説ですと、専修院・神明神社の伝承は、逃亡中の出来事になります。小栗栖以降ではないため生存説の根拠にはなりません。(光秀の逃亡ルートが異なるのかもしれませんが、、。)
 

妙心寺(京都府京都市)に潜伏

『和泉伝承誌』によると、小栗栖で殺害されたのは光秀の影武者で、光秀自身は妙心寺に逃れその後和泉(大阪府)に向かったと伝えられます。
 
影武者の存在と和泉に逃亡したという部分が興味をそそられます。
 
やはり光秀は生きていたのでしょうか?京から離れて何処か行く宛があったのでしょうか?
 
妙心寺

妙心寺(出典:Wikipedia)

 
また、『妙心寺史』によると、小栗栖で負傷を負った光秀が妙心寺に潜伏し、その1年後に没したと伝えられています。
 
こちらは妙心寺に隠棲しそのまま亡くなっており和泉に逃亡はしていませんね。
 
史料によって内容が異なっていますが、どちらも殺害されず生き延びたことは共通しています。
 
なお、妙心寺にある浴室「明智風呂」は光秀の叔父「密宗和尚」が光秀の菩提を弔うために創建したもので、風呂が沸いた合図の鐘は春日局が寄進しています。
 
春日局は重臣斎藤利三の娘で、徳川家光の乳母に抜擢された人物です。
 

本徳寺(開基時は大阪府貝塚市鳥羽)で出家

本徳寺は江戸時代初期に南国梵桂が開基したとされる寺院です。
 
一説では南国梵桂は明智光慶(光秀嫡男)だと言われます。
 
本徳寺には南国梵桂が描かせたという日本で唯一の「明智光秀肖像画」があります。
 
明智光秀 肖像画

明智光秀肖像画(出典:Wikipedia)

 
そこには「放下般舟三昧去」と記されています。
 
つまり「(光秀が)仏門に入り去った」という意味です。
 
 
この鳥羽にある本徳寺は、前身が海雲寺、その前が「大日庵」
 
光秀は「大日庵」に隠棲して出家したとも考えられます。
 
そして僧になった光秀は「去った」、、、。
 
「光秀=天海説」と何か結びつきがありそうです、、。
 
 
また、この鳥羽にはこのような俗謡が残っています。
 
「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」
 
かわいそうな言われようですが、光秀が大日庵に住んでいたことを窺わせる歌です。
 
「妻の髪売る」とは十兵衛(光秀)の妻煕子が光秀のために自身の髪の毛を売って資金にしたという逸話です。
 
※髪を売ったと世に広まった光秀の妻「煕子」についてこちらでまとめています
 
 
そして光秀ものとされる位牌には「鳳岳院殿雲道大禅定門」とあり「光」「秀」の字が隠されています。
 
その位牌の裏に「当寺開基慶長四己亥」と記されており、「慶長4年(1599年)に光秀が寺院を開いた」となっています。
 
これは本徳寺のことでしょうか?前身の海雲寺でしょうか?
 
また、光秀が1599年まで生きていたことも分かります。
 
天海となった光秀が開基したのかもしれません、、。
 
本徳寺は光秀にかなりゆかりの深い寺院だと言えます。
 
※明智光秀の子の行方について、出雲地方に残る一説をこちらで紹介
 

光秀寺(こうしゅうじ、大阪府高石市)に隠棲した

光秀寺は前身が蓮正寺の「助松庵」ですが、その助松庵に光秀が逃れてきて隠棲したと伝わります。
 
現在、「助松庵」は光秀寺に移転されており「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれた石碑があります。
 
 
以上、5つの寺院等の伝承を紹介しました。
 
逃亡、隠棲、出家、出家後の移動、寺院の開基など様々な伝承がありました。
 
「光秀=天海説」を彷彿とさせる伝承は興味深いですね。
 
光秀が出家したという伝承は比叡山にもあり、次で紹介したいと思います。
 

光秀が生きていた証拠を示す「比叡山長寿院」

比叡山では、光秀が山崎の戦いから逃れ、長寿院で出家したことを示す証拠があります。
 
比叡山

京都方面から眺める比叡山

 
叡山文庫に、「権大僧都の是春、俗名は光秀」と記録が残っており、これが光秀本人である可能性を示しています。
 
また長寿院に、光秀の名で寄進した石灯籠があります。
 
「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と記載されており、慶長20年(1615年)まで生きていた事が窺えます。
 
和泉方面に落ち延びた伝承とは行き先が異なりますが、こちらも「生きていた」とする伝承です。
 

岐阜へ?光秀ゆかりのお墓とは?

『荒深家文書』には光秀が岐阜に逃れたと記されています。
 
小栗栖で殺害されたのは光秀の影武者を名乗って戦った「荒木信行」。
 
美濃国の中洞(光秀誕生の地とされる)に逃れることができた光秀は、木の忠義にく感謝して「荒深小五郎」と名乗って生きます。
 
その後、関ヶ原の戦いが起き、家康に味方しようと出立しますが洪水に遭い落命。
 
村人に厚く葬られたと言われます。
 
その葬られた墓は現在に伝わる「桔梗塚」です。
 
光秀は乙寿丸(三男)を連れて落ち延びており、その子孫は現在まで続いているそうです。
 
畿内からだいぶ離れましたが、ここでも光秀が「生きていた」という伝承がありました。
 

本能寺の変「四国説」の四国に逃れた?

寺ではありませんが、四国長曽我部氏の元へ逃れたという説もあります。
 
海へわたる
 
四国は、本能寺の変「四国説」からもゆかりのある地であることは確かです。
 
光秀は長曽我部元親の家臣金子元宅に身を寄せます。
 
1585年、豊臣秀吉の四国征伐の一つ「天正の陣」では3万の軍勢に対し金子軍は2千。
 
劣勢の中、光秀も戦ったと伝わります。
 
また明智から分家したという「明星姓」も残っておりお墓には桔梗紋が印されているそうです。
 
なお、斎藤利三の兄で光秀に仕えた石谷頼辰も、長曽我部氏の元に逃れています。
 
顔を合わせることもあったのでしょうか?
 
※石谷頼辰や弟斎藤利三たちの家系図を紹介しています
 
※本能寺の変の四国説をはじめ、動機説をまとめています
 

まとめ

明智光秀は、山崎の戦いを経て小栗栖で殺害されたというのが通説です。
 
しかし世の中に「明智光秀は生きていた」とする伝承がこんなにもあることが分かりました。
 
そう言われる理由や、その根拠を持ったゆかりの寺社や墓などが存在しました。
 
そしてこれらの中には「明智光秀=天海説」と関連づけられる伝承もありました。
 
『麒麟がくる』では光秀が生き延びた可能性を残しましたが、多くの視聴者の方が「天海になったのでは?」と想像を膨らませたのではないでしょうか?
 
『麒麟がくる』の光秀役だった長谷川博己さんからは、番外編に含みを持たせるコメントがありました。
 
筆者も、本記事で紹介したような経緯を辿って天海となり、家康と共に麒麟を呼ぶ瞬間が見れたら嬉しいと思います。
 
※「天海=光秀説」、『麒麟がくる』番外編の可能性について紹介しています。
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