「ひっそり系史跡巡り」がオススメ!ー坂東市「将門の胴塚」を紹介ー

2023/03/25
 
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
新型コロナウィルスが流行してから約1年が経ちました。未だ終息は見えず、自粛疲れの毎日ではないでしょうか。
 
外出は自粛すべきですが、「混雑しない場所だったら気分転換に出かけたい!」と思ったりしませんか?
 
本記事では新しい観光様式(?)の一つとして、「ひっそり系の史跡巡り」をオススメしたいと思います!
 
「ひっそり系」とはその名の通りひっそりと存在する史跡。
 
ちょこっと歴史の知識を入れれば、今まで素通りしていたような場所が魅力的な観光スポットに様変わりします!
 
これは新しいお出かけや観光のカタチだと思います!
 
今回は茨城県坂東市にある「将門の胴塚」を紹介しようと思います。
 
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ひっそり系史跡をめぐるメリット

はじめに、「ひっそり系史跡巡り」のメリットを紹介しようと思います!
 
「ひっそり系」のメリット
・混雑や飛沫感染の心配がない
 
・渋滞しない、車が停めやすい
 
・穴場スポットが発見できる
 
・周囲に紹介しやすい
 
「史跡」のメリット
・歴史の人物や出来事に理解が深まる=温故知新!
 
・関連する史跡(観光スポット)が結構発見できる
 
・歴史に詳しい人になれる
 
・周囲に紹介できる
 
・子供の学習に役立つ
 
などでしょうか。
 
これらによって、自分だけが知る「穴場観光スポット」や「穴場パワースポット」が発掘できるようになります!
 
このようにひっそり系の史跡はメリットが多いのです。
 
ただ、穴場というかマニアックな史跡になるため、石碑だけだったりして「つまらない」可能性もあります笑。
 
それを回避するにはやはり「事前に知識を入れておく」ことがポイントです。
 
今回は茨城県坂東市にある「平将門の胴塚」を訪問しますので、事前に「平将門」を学んでおきたいと思います。
 

平将門を簡単に紹介

前述の通り、史跡巡りの魅力は、事前の知識の量で大きく変動してしまいます。
 
「平将門に関する史跡を巡ろう!」と思っても知識がないとつまない可能性が大です笑。
 
ざっくりで十分なので知識を持って訪問しましょう。
 
こちらでも簡単に平将門について紹介します(詳細は他のサイトなどを参照ください。)
 
平将門は、939年(平安時代)常陸国(茨城県)をはじめとする関東8国を奪い、朝廷に反乱を起こした武士です。
 
自ら「新皇」を称して新しい朝廷を作ろうとしますが、討伐軍の平貞盛と藤原秀郷に敗れ戦死してしまいます。
 
この反乱を「平将門の乱」と言います。
 
将門は日本三大怨霊として有名で現代にまで影響を与えています。
 
以上ですがちょっと簡単過ぎましたでしょうか、、笑。
 
これだと既に有名な観光スポットには良いですが、「ひっそり系史跡」を巡る場合は情報が少なく感情移入もできないかもしれません、、、。
 

平将門をもう少し詳しく紹介 !

と言うことで、もう少し詳しい内容を紹介します!(諸説ある部分は全て書き出しておりませんのであしからず)
 
平将門は903年に誕生。初めは京都の朝廷で働きますが出世が望めず、930年ころ下総国(千葉県佐倉市)に帰ります。将門が戻ると氏族内に紛争が勃発。父の遺領(下総国佐倉や豊田・猿島)を巡る叔父らとの領地争いや、親族間での女性問題といわれます。将門は叔父の国香・良正らとの戦に勝利し、その後叔父良兼も破って名声を高めます。
 
するとそんな将門の元に、腐敗する国司らに虐げられる役人たちが頼って来るようになります。
 
国司とは中央(朝廷)から派遣された国の行政官幹部。役職が「守」、「介」、「掾」、「目」と序列がある。「守」は京におり、実質「介」がトップ。また郡司はその下の郡を治める役人
 
放って置けない性分の将門は、常陸国国司源護(みなもとのまもる)と領地紛争する荘園領主の平真樹(たいらのまさき)や、国司興世王(おきよおう)・藤原経基から略奪を受ける郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)を助けて戦に加担したり仲裁役を買ったりしますが、その度に訴状が朝廷に出されてしまい弁解を迫られます。
 
しかしいずれも将門の無罪が認められたことから、関東ではさらに名声が高まっていきます。
 
939年、今度は脱税と横領を繰り返す藤原玄明(はるあき)が頼ってきます
 
将門はそんな玄明も匿います。
 
さらに玄明の追討を取り消すよう常陸国(茨城県)国司に求めると戦が勃発。
 
将門は国司の藤原維幾(これちか)を破って追放し、国府を占領(平将門の乱)
 
国司らに苦しめられていた役人重税に苦しむ民衆は大いに喜び、将門はたちまち英雄となりました。
 
側近になっていた興世王のすすめもあって、勢いに乗じて関東8国を攻め落とします。将門は桓武天皇の5世である自らを「新皇」と称し新しい朝廷を開くため、岩井(坂東市)に政庁を置きます。
 
これを知った朝廷は仰天。追討軍を派遣した上、さらに追討官符を発し賞金首としました。
 
そこで平国香の子貞盛藤原秀郷と連合軍を結成し将門の討伐に向かいます。
 
将門が兵たちを自国に帰し手薄にしていたところを、貞盛らに狙われ敗走。
 
940年2月14日、将門は兵が集まらない中、少数の手勢で幸島郡北山(茨城県猿島郡)を背に陣を張ります。そこに攻めてきた貞盛・秀郷連合軍と戦が始まります。将門は奮戦するも、多勢に無勢、額に矢を受け討死してしまいました。享年38歳。
 
これが平将門と将門の乱です。
 
「ひっそり系史跡巡り」を楽しむならば、このくらいの情報があった方が良さそうですね。
 
逆にこのくらい知っていれば、今まで見過ごしていた史跡が魅力的な「観光スポット」に様変わりします。
 

怨霊?将門の首と胴体の行方

討伐された将門の首は京都に届けられて、七条河原に晒されました。
 
その首は、何ヶ月も目が見開いて口は歯ぎしりした形相だったと言われます。さらに「身体をつけて戦をせん!身体はどこだ?」と毎夜叫んでいました。
 
そしてある夜、首は胴体を求め白光を放ち、東に飛び去ったと言われます。
 
しかしやがて首は力尽きて落下。
 
落ちた場所は武蔵国柴崎村(東京都千代田区大手町)。現在の「将門の首塚」が祀られている場所です。
 

将門の首塚(出典:Wikipedia)

 
首は結局「胴体」に辿り着くことはできませんでした。
 
そもそも首が目指した「胴体」はどこにあったのでしょうか?
 
「胴体」は現在の茨城県坂東市に埋葬されたと言われています。そう、今回紹介する「将門の胴塚」です。
 
 
ちなみに大手町にある「将門の首塚」の祟りを紹介します。
 
「将門の首塚」は、古より荒らすと祟りがあると怖れられきました。近年では、1923年に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際に、工事関係者や政府関係者十数名が亡くなり中止となっており、またGHQによる区画整備の際も怪我人が続出しブルドーザーが横転して死亡者も出たため中止になりました。
 
そして高層ビルが立ち並ぶ大手町にあって、首塚はそのまま保存されており人々から畏怖と崇敬を集めています。
 
なんだか怖い話になってしまいましたね?
 

「将門の胴塚」(坂東市)を紹介

「ひっそり系史跡巡り」といいながら怖い話になってきました。
 
とはいえ、将門が困った役人や民衆を救おうとした英雄だったことや、残念ながら志半ばで戦死したことを知っていれば、史跡に向かう気持ちも違ってくるのではないでしょうか?
 
では、「将門の胴塚」を紹介します。
 
場所は、茨城県坂東市の神田山『延命院』の境内です。
 
下の写真の「延命院の将門山(神田山)」に記載されていますが、将門の胴体が埋葬されたこの地は、その後神領(伊勢神宮所有の荘園)になったため誰にも暴かれることなく今に伝わっている、と言うことです。
 
紹介
 
 
境内には将門山毘沙門天と不動堂があり、不動堂の裏手に将門の胴塚(神田山、将門山と呼ぶ)があります。
 
将門の胴塚
 
胴塚の後ろには大きなかやの木があり、将門を守っているかのようです。
 
 
胴塚の右手には昭和50年に千代田区の「将門の首塚」から移された石塔婆が建っています。あの首塚です。献花やお供物をあげることができますので、将門を偲びながらお参りしましょう。
 
石塔婆 
 

「ひっそり系史跡」にも華が?

実は筆者は以前に何度か訪れています。
 
その時も参拝者を見かけたことがなく、ひっそりとした佇まいでした。
 
そして最近また行ってきたのですが、なんと「のぼり」が立っていました!
 
詳しい方に聞くと「以前より訪問者が増えた」とのことで華やかになったようです。
 
のぼり
 
とはいえまだまだ参拝者は少ない場所です。
 
ちょこっとお出かけしたい時にはオススメです。
 
お花などもお供えできますので持参すると将門公もお喜びになるのではないでしょうか?
 

最後にー将門由縁のスポットも添えてー

コロナ禍でのお出かけや観光について、「ひっそり系史跡巡り」をオススメしました。
 
将門の人物を知って、ゆかりある地を巡るのは、映画などの聖地巡礼に似ていますね。
 
歴史は一見とっつきにくく思いますが、調べると現代に通じていて温故知新を感じたりなど、メリットがたくさんあります。
 
今回は筆者が行く「将門の胴塚」を紹介しましたが、是非自分だけの「ひっそり系史跡巡り」を発見してみてください!
 
コロナ禍のお出かけや観光の一つの楽しみ方だと思います。
 
最後に、「将門の胴塚」と一緒に巡る近隣の史跡を紹介します。
 
3、4か所巡っても、1時間程度で回れます!
 
國王神社
将門が戦死した地。将門の三女如蔵尼がお告げを受けて彫ったという「将門像」が御神体になっている。1000年以上の歴史。御朱印やお守りもある
 
島広山石井営所跡
将門の本拠地。重臣たちの館や郎党の住居があり、また数千騎の兵や馬を休ませる宿舎や兵糧庫などもあった。まさに関東制圧の拠点だった場所
 
石井の井戸塚
石井営所の一部。将門が根拠地を探し求め歩くうち喉を乾かした。そこに老翁が現れ大地を砕き水を湧き出させ一行を救うと消え去った。将門は縁起を感じこの地に城郭を築いたという由来がある
 
平将門公本據豊田館跡
父良将の本拠地。将門と叔父らの領地争いの地でもある。将門は本拠地を935年石井に移した
 
平将門公之像
まずは銅像から拝んで「ひっそり史跡巡り」を始めても良いかも
 
西念寺
将門の兵たちが怖がって士気を下げたという「泣き鐘」がある
 
富士見の馬場
将門が強かったのは馬の産地を有し調教に力を入れたから。ここがその牧場と調教した場所
 
九重の桜
朱雀天皇の即位に際して、将門の罪が許される。その時に御所から株分けされて持ち帰った桜
 
この他にもまだまだありますのでぜひ調べてみてください!
 
将門の知識があると全部が魅力的な観光スポットになりますよ。
 
 
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