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天海の聖地「川越喜多院」!天海の歴史も分かる境内めぐり!

2023/04/29
 
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。 また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。 そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。 モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
徳川家康の側近で「黒衣の宰相」と呼ばれた「南光坊天海(なんこうぼうてんかい)」。その南光坊天海(以下天海)と非常に深いゆかりがある「喜多院(きたいん)」を紹介します。
 
境内をぐるりと巡れば「天海の聖地」だということがよく分かる寺院です。
 
本記事では、喜多院にある天海ゆかりの建物を紹介しながら、天海の歴史についても紹介。
 
天海の歴史を知りながら、境内を散策してみましょう!
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そもそも「天海」と「喜多院」の関係って?

喜多院の境内を紹介する前に、天海と喜多院の出会いを簡単に紹介します!
 
天海は徳川家康の側近になる前、比叡山延暦寺や興福寺、足利学校など多くの寺院で修行や学問を学びました。
 
そして1588年に武蔵国無量寿寺北院(後の喜多院)に移って、26代座主(住職)豪海に師事しました。
 
これが天海の喜多院との出会いです。
 
1590年に「天海」を名乗り、1599年に豪海を継いで27代無量寿寺座主となりました。
 
天海

天海僧正(出典:Wikipedia)

 
では喜多院にはどんな歴史があるのでしょう?
 
喜多院は無量寿寺にあった北院・中院・南院のうちの「北院」を指します。
 
無量寿寺とは、平安時代に創建されて、鎌倉時代に関東天台宗本山になった寺院です。
 
天台宗は「日本の仏教の祖」とも言われる宗派です。
 
天台宗の総本山は比叡山延暦寺でしたので、関東のトップである無量寿寺で天海は修行しようと考えたのでしょう。
 

徳川家康を祀る「仙波東照宮」

天海が徳川家康に面会し関係が深まるのは1590年前後とも言われますが、前述した無量寿寺座主となった1599年には家康の命で朝廷交渉などを行っています。
 
家康の信頼は厚く、江戸の都市計画や宗教政策なども任されました。
 
しかし1616年に家康は亡くなります。
 
家康の神号争いが起こりますが勝った天海は、家康の霊を「東照大権現」とし日光東照宮に改葬しました。
 
日光での埋葬に向かう途中、天海は遺骸を喜多院に留めて4日間にわたる大法要を行いました(1617年3月23日~26日)。
 
そしてその家康を祀るため境内に「仙波東照宮」を建てました。
 
家康は、日光東照宮で埋葬される前、ここ喜多院に置かれて法要を受けたわけです。
 
仙波東照宮正面

仙波東照宮

 
ということで、最初に喜多院で紹介する建物は「仙波東照宮」です。(最初に慈恵堂に向かわないという、、)
 
案内看板

喜多院境内 案内看板

 
「境内案内」の下側に「仙波東照宮」があります。
 
喜多院の入り口である「山門」(駐車場近く)をくぐって左に進むと、「仙波東照宮」があります。
 
丘の上にあって、錠で中には入れませんが、日光東照宮を思わせる豪華な建築と装飾は離れていてもよく分かります。
 
堂内には徳川家康公の木像が祀られており、本殿の周りには歴代の川越藩主が寄進した石灯籠が並んでいます。
 
仙波東照宮 ななめ

仙波東照宮 斜めから

羽風
 
 
建物の周りを1周できるので拝殿と本殿両方を見ることができます。
 
「♫せんば山には狸がおってさ」の舞台とも言われています。徳川家康を指してその滅亡を歌っています。

喜多院最古!1632年建築の「山門」

1599年に無量寿寺座主となった天海は、その後、家康の元で「喜多院」を創建することになります。
 
1612年、天海は川越藩主酒井忠利と共に「無量寿寺北院」の再建を行いました。
 
戦乱で荒廃した無量寿寺北院を復興し、天海らは寺号を「喜多院」に改めました。
 
天海の聖地「喜多院」の誕生ですね!
 
江戸時代初期、天海らによって付けられた名前だったわけです!
 
そして広大な敷地と石高を誇り、家康の死後、2代将軍秀忠、3代将軍家光の元でもさらに勢力を強めていきます。
 
しかし1638年、川越で大火事が起こり、喜多院は「山門」を除く全てが消失してしまいます。
 
前述の仙波東照宮も消失。
 
唯一無事だった「山門」。
 
この「山門」は、1632年に天海が築いたもので、喜多院にある建築物で最古のものとなってしまいました。
 
山門正面

山門

 
山門斜め

山門

 
堂々とした立派な「山門」です。
 
これが大火を免れた天海の「山門」。縁起が良さそうです。
 
先ほど紹介したように、喜多院はこの山門から入っていきます。
 
いきなり最古の建築を見ることができますね!
 

喜多院の復興!江戸城から部屋を移築?

「山門」以外が消失してしまった喜多院、、。
 
当時の将軍だった徳川家光は、すぐさま天海と老中堀田正盛に喜多院や仙波東照宮の復興を命じます。
 
その内容が驚きです。
 
なんと「江戸城の一部」を川越の「喜多院に移築する」というものです。
 
しかも「徳川家光が誕生した部屋」「家光の乳母「春日局」の化粧の部屋」など将軍自ら縁の深い部屋を移築させました。
 
家光が喜多院を重要視していた様子がよく伝わります。
 
また移築に水運を利用しようと河川も開きました。
 
家光は天海を信奉していたと言われますので、より喜多院の復興に力を注いだのではないでしょうか。
 
江戸城移築

江戸城より移築御殿の入り口

 
江戸城より移築された部屋は現存しており、公開されています。
 
山門をくぐってまっすぐ進むと右手に見えます。
 
移築御殿(「家光公誕生の間」・「春日局化粧の間」等)の拝観については以下です。
 
拝観料:大人400円/小人(小・中学生)200円
 
時間は9:00~16:00(受付は15:30)※緊急事態宣言による措置
 
写真撮影は禁止
 
※詳細は「喜多院HP」等参照ください
 
内容を簡単に紹介したいと思います。
 
客殿(家光公誕生の間)
12畳半が2室、17畳半が2室、10畳が2室あります。12畳半のうちの1室が家光誕生の間です。襖や壁には落ち着きのある水墨画が描かれ、天井には彩色された81の花模様が描かれています。また家光が使用していた湯船や厠(トイレ)もあります。縁側からは広い庭園も眺められます。
 
書院(春日局化粧の間)
8畳が2室と12畳が2室あります。これらは春日局が使用していた「化粧の間」と言われます。ここからは「曲水の庭」と題された庭園が眺められます。
 
※「春日局」の父親「斎藤利三」を紹介しています
庫裡
拝観入口や寺務所に当たります。玄関と食堂、広間にあたります。「天海僧正を大河ドラマに!」という旨のポスターがあってテンションも上がりました。
 
以上が江戸城から移築された部屋です。
 
「現存する江戸城を体験したい!」、「徳川将軍や春日局に触れたい」という方には外せない観光スポットですね!
 
その他、狩野吉信の「職人尽絵」などの重要文化財も展示されています。
 
鉄砲も展示されてましたが天海所有のものでしょうか。
 
明智光秀は鉄砲の名手でしたので、「天海=光秀説」を想起させますね、、。
 

喜多院の復興により現存する建築物

大火からの復興は、客殿や書院などだけではありません。
 
喜多院に入るとすぐに目に入ってくる「慈恵堂」も再建されました。
 
慈恵堂は、鎌倉時代に無量寿寺が関東天台宗本山となった際に、慈恵大師(比叡山延暦寺18代座主)を祀ったお堂です。
 
別名「潮音殿(ちょうおんでん)」とも言います。
 
その昔、殿内で座って耳を澄ませると、なぜか遠くで潮の満ち引く音が聞こえてくるため、不思議がった人々が「潮音殿」と呼んだと伝えられています。
 
これは実際、遠くから聞こえてきた時代があったのだと思います。
 
なぜなら喜多院から程近い場所に「仙波貝塚」があるからです。
 
ずっと昔はこの辺りまで海があったのでしょう。
 
また、堂内には1300年に作られた銅鐘があり重要文化財に指定されています。
 
慈恵堂

慈恵堂

 
山門を入って左手を見ると、目に飛び込んでくる赤色の門、「鐘楼門」があります。
 
鐘楼門

鐘楼門

 
鐘楼門は1633年に建立されたようですが、実は大火を免れた可能性があり、そうすると山門に次いで2番目に古い建築物となります。
 
こちらも装飾が極彩色で彩られています。
 
鐘楼門アップ

鐘楼門

 
その他、復興に合わせて建てられた「多宝塔」があります。
 
こちらは昭和に復元されていますが、江戸初期の多宝塔の姿を伝えています。
 
多宝塔

多宝塔

 

天海の廟所「慈眼堂」

このように天海は喜多院の復興に力を尽くしました。
 
そして1643年にこの世を去ります。
 
108歳という長命でした!
 
将軍家光は大いに悲しんだと言われます。
 
家光は1645年に慈眼堂を建ててその死を悼みました。
 
慈眼堂 ひき

慈眼堂

 
慈眼堂

慈眼堂 正面

 
慈眼堂ななめ

慈眼堂 ななめ

 
慈眼堂には厨子に入った天海の木像が安置されています。
 
慈眼堂の後ろには歴代の住職のお墓もあります。
 
また朝廷からは「慈眼大師号」が追贈され、その功績を讃えられました。
 
喜多院には「木造天海僧正坐像」もあり極彩色で彩られて、威厳を感じる木像が安置されています(撮影不可)。
 
 
以上が天海にまつわる「喜多院」の建物です。
 
天海の歴史と共に紹介してみました。
 
このように喜多院は天海のまさに聖地なのです。
 
今回は天海に関わる建物などを紹介しましたが、喜多院には他にも見どころがたくさんあります。
 
だんご

川越大師「厄除けだんご」

 
これはだんごです。おいしかったです!
 
露天や売店が色々あるので、休憩したりしながら参拝できますね。
 

まとめ

いかがでしたでしょうか?
 
天海の聖地「喜多院」の境内を紹介しながら、天海の歴史も紹介しました。
 
以下にまとめてみたいと思います。
 
徳川家康の側近となった天海は戦乱で荒廃した「喜多院」(無量寿寺)の復興を主導しました。
 
将軍家光の時代には大火の被害に遭い殆どの伽藍が消失しますが、家光自らの支援もあって再び復興に成功します。
 
そして、天海は108歳の長命でこの世を去りました。
 
この一連の流れが「喜多院」では間近に見て体感することができます。
 
徳川家康を祀った「仙波東照宮」(家康の死去時)
 
1632年に建築された「山門」(喜多院創建時)
 
江戸城から移築された「家光誕生の間」と「春日局化粧の間」と「庫裡」(大火の復興時)
 
慈恵大師を祀った「慈恵堂」(大火の復興時)
 
大火を免れた可能性のある「鐘楼門」(喜多院創建時?)
 
復興で建造された「多宝塔」(大火の復興時)
 
そして天海の廟所「慈眼堂」(展開死後)
 
その他にもみどころがあります!
 
撮影できない場所も多くありましたので、ぜひ一度自分の目で確かめに行ってはいかがでしょうか。
 
今回紹介した内容がお役に立てれば幸いです!
 
まんじゅう

「いも恋」まんじゅう

これは菓子屋横丁で売っているおまんじゅうです。中は下層がさつまいもで上層があんこになっていますが、自然の甘さでとても美味しかったです。さつまいもとあんこの味を交互に感じれる楽しいおまんじゅうでした。
 
※天海といえば「天海=明智光秀説」が有名ですが、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でもその可能性を残して終わりましたね。以下では「天海=明智光秀説」についてと、勝手に筆者が当時予想した「番外編」についてまとめていますのでよろしければご覧ください。
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