松永久秀の3悪事は本当か?いつ、なぜ「悪人」となったのか検証!
2023/03/25
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。
また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!
前回、『天下の梟雄「松永久秀」。悪人と呼ばれる3つの出来事を紹介。』で紹介した3つの出来事について、その真実に迫ってみたいと思います。
松永久秀が「天下の梟雄」と呼ばれ「悪人」として名高くなった根拠や時代なども紹介したいと思います。
ちなみにこちらでは久秀が歩んだ経歴などは割愛しています。
ざっくりと知りたい方は以下からご覧ください。
目次
一存と義興は暗殺ではない?
前回、三好長慶の親族で十河一存と三好義興は久秀が暗殺したと紹介しました。
しかし実際は二人とも暗殺されていないのです!
一存の死因は病死で、『足利季世記』や『続応仁後記』では落馬と記述されていたりもします。
暗殺とされたのは、実は二人は仲が悪く、一存が亡くなった際に久秀が傍にいたことが根拠とされたようです。
義興も病死。
「久秀の奸計を見破って排除しようとしたところ久秀に毒殺された」といううわさもあったようです。
しかし、二次的史料の『足利季世記』と『続応仁後記』ですら疑問を呈していることから誤りと言えるでしょう。
『足利季世記』には病気と記述されています。
要するに「人々のうわさ・風説」を根拠に創作された逸話で「一族の暗殺」は真実ではないということですね。
冬康の誅殺は久秀の謀略か?
安宅冬康については、『言継卿記』に「逆心があって殺害されたようだ」とあり『続応仁後記』には「確実に久秀が冬康の謀反を讒言した」とあり、『足利季世記』には「何者かが讒言した」とあります。
様々な記述があって真実は掴めません。
信憑性の高い『言継卿記』が伝聞形式であるとは言え「久秀の讒言」に触れていないことから憶測の域を超えない情報として記載していない可能性があります。
また「何者かが」という点も「久秀以外」に限定されていません。
ただ庶民や『続応仁後記』は「久秀の讒言」を信じていたことが窺えます。
「信じる」根拠としては、冬康は優しく温厚で思慮深いことから人望のあった武将で、一方の久秀は下克上を狙って暗殺のうわさが立つ武将です。
庶民や『続応仁後記』のように一般的に「反逆の疑い」は久秀に向けられるのが自然と言えるでしょう。
また、うつ病によって被害妄想や心中に駆られた長慶が単独で起こした殺害という見方もあるようです。
以上から久秀の関与は排除できないものの「冬康の殺害は久秀の讒言」と断言できません。
将軍義輝を殺害していない?
永禄の変では、実際に義輝を急襲して殺害したのは、久秀の嫡男松永久通と三好三人衆で、久秀は参加していません。
当時多くを大和国で過ごしており行動を共にしていないのです。
ということで久秀は義輝を殺害していません。
ただ計画自体には参加していた可能性があります。
久秀は義輝の弟覚慶(後の15代将軍義昭)を事件直後に幽閉し、朝倉義景の呼びかけで近江に逃しています。
このような急な対応が取れるのは三好三人衆らと計画を共有していた証拠であり、同時に三好三人衆に権力を握られないよう覚慶を生かす措置もとっています。
ともあれ、義輝殺害の主犯とされたのは、やはり三好三人衆よりも下克上を狙った久秀の方が人々に受け入れやすかったのだと思いますが、「久秀が将軍義輝を殺害した」という事実はありません。
「永禄の変」について詳しい検証はこちらから参照ください。
大仏殿の放火は三好軍の失火?
大仏殿の放火事件については。いくつか史料(意訳)を紹介します。
「兵火が飛び火して大仏殿が焼失し、大仏も焼失した。言語道断」(『多聞院日記』)
「三好軍がいた小屋に張ったむしろに誤って火がついた」(『足利季世記』)
「三好軍が誤って鉄砲の火が火薬に移った」(『大和軍記』)
「三好軍のキリシタンの兵士が放火した」(『日本史』)
史料から考えると、むしろ三好軍の失火か放火ではないのかと思えます。
現状可能性があるとすると、「両軍のどちらかの失火」なのではないかと推測します。
ということで、「久秀が東大寺を放火した」という根拠はありません。
よく放火した根拠として、信長が久秀のことを「三悪事の一つは東大寺を焼き討ちしたこと」と紹介したという逸話がありますが、これは『常山紀談』にまとめられている逸話で信憑性はありません。
もしくは久秀が東大寺の戦いの前日に近隣の寺院10軒ほど放火していますが或いはそれが「東大寺を放火」と結び付けられたのかもしれません。
「悪人久秀」の成立要素は、「出世」と「外様家臣」
以上、久秀が「梟雄」と呼ばれた出来事について、その真実を紹介しました。
このように、多くが根拠に乏しい俗説や創作だったとわかります。
なぜ久秀は俗説や創作で「悪人」に仕立て上げられたのでしょう?
それは一門でも筋目のある家柄でも無い武将が飛躍的な出世を遂げたことが根本的な根拠にあると思われます。
久秀の飛躍的な出世を以下に紹介すると、、、
1、三好長慶に右筆として仕え、政務や戦争に活躍し重臣となる
2、三好政権が樹立すると家宰(家臣団筆頭)に任命され、また幕府の奉行衆(幕府行政機構)となる
3、将軍義輝より「御供衆」(将軍側近)に任命され、従四位下に叙任、桐紋と漆輿の使用を許される
4、権力は当時天下人と言われた主君長慶に並ぶほどに巨大化
長慶に仕官して約30年のうちに三好一族を凌駕するほど飛躍的な出世を遂げました。
これが「狡猾に立ち回って下克上を図った」と捉えられたのではないでしょうか。
しかし実際の久秀は、長慶に忠節を尽くし逆心を抱かず三好家を支えており、幕府の政務も極めて実直に勤めています。
久秀には政務も戦も文化教養においても素質があったため出世したに過ぎず、「悪心」や「下克上」のイメージは周りが騒ぎ立てる羨望や嫉妬などから発生する「うわさ・風説」が根元にあるように思います。
いつから?決定的な「悪人久秀像」の完成!
どうやら「悪人久秀像」は江戸時代に完成されたようです。
それ以降現代に至るまで「悪人久秀」が小説やドラマで描かれてきました。
『足利季世記』や『続応仁後記』も合戦記や軍記物で史実とは限りませんが、江戸時代中期以降『常山紀談』をはじめとする説話集は特に「悪人久秀」を描くようになっており人生における教訓などにも利用されました。
歴史学者の天野忠幸氏によると「幕藩体制が安定して、家臣が譜代ばかりになると、久秀のような成り上がり者は脅威でしかなかったことから、安定した社会秩序を反映した風潮が原因だったのではないか」と推測されています。
また『足利李世紀』に久秀の人物評価がありますが「久秀は分別才覚、人にすぐれ、武勇は無双なり。天性やぶさかに生まれついて、大欲深し」とあります。
「幕藩政治に参加できる家柄にない者が才覚と野心を持って成り上がってくると政治の秩序が乱れる」と考えられたのかもしれません。
『常山紀談』は説話や教訓集として明治大正時代の教科書にも利用されていたようですので、このような考えは後年まで支持されていたのだろうと思います。
まとめ
松永久秀が「天下の梟雄」と称される「悪事」の真実を紹介しました。
1、三好一族の死因は病死や戦死で、久秀の暗殺ではない
2、冬康の殺害は久秀の讒言と断言できない
3、久秀は足利義輝を殺害していない
4、東大寺の焼失は久秀の放火ではなく三好軍の放火もしくは両軍の失火の可能性
なぜ真実ではない創作がなされたのか?
外様家臣にも関わらず、一族を差し置いて飛躍的な出世を果たしたことが下克上捉えられた
周辺の羨望や嫉妬が面白おかしくうわさや風説として記録されたのではないか?
いつから久秀は悪人となったのか?
大きな転換点は江戸時代中期。『常山紀談』で描かれる久秀像が教訓として扱われた。
家柄に乏しい者が才覚と野心を持って成り上がると幕藩体制の秩序が乱される
よって松永久秀を悪人モデルとして人々の教訓に利用したのではないか。
それが現代に至るのだと思います。
以上まとめでした。
松永久秀に伝わる他の逸話も紹介しています。興味ありましたらご覧ください!
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