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【後編】佐久間信盛追放!光秀の暗躍?なぜ「折檻状」は突きつけられたか。

2023/03/25
 
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こちらでは、織田信長に「19ヶ条の折檻状」を突きつけられ、突然追放された「佐久間信盛」について紹介し、その追放にまつわる陰謀論について考えています。
 
【前編】では「佐久間信盛の人物」と「折檻状のポイント」を紹介しました。
 
後編ではいよいよ「誰かの讒言」について考えてみたいと思います。
 
筆者も讒言の可能性を感じており、その「誰か」とはいうのは「明智光秀」ではないかと思います。
 
実際に、佐久間信盛らの追放について、『佐久間軍記』や『寛政重修諸家譜』でも明智光秀の陰謀が記述されています。
 
筆者が根拠としたのは、光秀の性格と指向性です。
 
それでは、以下から「折檻状の讒言となるポイントを検証」し、光秀の性格などを絡めながら推測していきたいと思います。
 
明智光秀の性格についてはこちらを参照ください。
 

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「折檻条」の違和感と疑問について

 
さて、【前編】で「折檻状」のポイントをまとめました。
再度振り返りますと以下になります。

 
追放の直接的な原因は石山合戦での怠慢
光秀や秀吉が努力して大功を上げている間、信盛は無為無策でその様子が際立った
>>>信長が天下に名誉を示せなかった失敗(武力ではなく朝廷を介した和睦)→信盛への不満
 
石山本願寺攻めをはじめとして仕事がいい加減な上積極性がない
堀田の文書の件からも仕事にやる気を感じない上、仕事自体いい加減。信長に相談すらしに来ない
>>>信盛への不満の1つは、仕事に取り組む姿勢が消極的。→やる気があるなら示せ、と催促
 
信盛親子の武士の気質の欠如がそもそもの問題
武士としての資質がない上に、卑怯で臆病でケチで強欲で性格が気難しい
>>>もう1つの不満は武士としての資質。人格否定のように厳しい言葉が並んでいる
 
信長が与えた領地が家臣団強化ではなく私欲に利用されていた問題
家臣団の強化に使うべき知行地を私利私欲に変えて、弱体化させている事実
>>>褒美を与えれば与えるほど信盛を肥し家臣団を細らせるという実態を知った信長が激怒した
 
武士として名誉挽回するか武士を辞めるか2つの選択をせまる
武士として心変わりして死ぬ気で働け、できないなら隠遁せよ、と迫った
>>>信盛が後者を選んだ理由は興味深い。既に限界だったのか、それとも陰謀に屈したか?
この内容から陰謀について考えたいのですが、もう1つ、筆者が感じた「折檻条の違和感」と合わせて「陰謀論」を考えてみたいと思います。
 
織田信長

折檻状を突きつけた織田信長(出典:Wikipedia)

 
この「折檻条」を眺めるといくつか違和感を感じます。
 
・順番がバラバラでまとまりがない
 
・伝聞(聞いた話)を罪状にしている
 
・追放理由から何故重用していたのか不可解
 
 
思いついた順番でだらだらと書き並べた印象があり、情報が整理させれていません。考え得る理由としては、「怒りに任せて書き上げた」、「急いで書き上げた」、「祐筆がまとめなかった」などでしょうか。練られた文書ではないため稚拙さを感じます。
ちなみに、石山本願寺攻めの怠慢関連は4つ、知行地が私利私欲に費やされた件は5つ、過去の失態については2つ、武士道や性格の欠陥については6つ、今後の進路については3つが記述されています。
 
刈谷の段(折檻状の上から8つ目)は伝聞情報を罪状としています。誰かから聞いた内容をそのまま罪として扱っていることに違和感を感じました。考えられるのは、信盛へ不満が頂点に達したため不確実でも罪として決めつけたのではないかと思います。何故ならば、刈谷は元々水野氏の領地でしたが、信盛が武田家と内通していると信長に訴え(讒言)、それを聞き入れた信長が水野信元を処断し信盛に与えた領地だからです。まさかその領地が金銀に換えられ私欲に利用されていようとは、、。これは激怒でしょう。この刈谷の件は信長に心当たりのある山崎の件と符合したことで正しい情報と判断したのだと思います。信盛を追放した直後、刈谷を水野氏に戻して大名に据えことからも正義や名誉を重んじた信長の怒りのようなものを感じます。
 
もうひとつの違和感は重用していたにも関わらず追放が唐突過ぎることです。石山本願寺攻めを含めて「佐久間信盛という人物」に不満を抱きながらも、叱責も降格もせずずっと譜代重臣として重用していたことになります。前述しました茶会の席で特別待遇(1578年)や、普段家臣の意見を採用しない信長が、信盛の説得は聞き入れ刑罰を撤回したり執行したり(若江三人衆の讒言や水野氏謀反)しています。と言うことは追放直前まで信頼を置いていたと思われます。少なくとも追放まで考えてはいなかったと思います。
 
では追放されるまでの約2年間で何が起きたのでしょうか?
 
そう考えるとやはり筆者は、刈谷における情報で火がついて逆鱗に触れたのではないかと想像します。
これは信長に誰かが情報をリークしなければ分からないことだったと思われます。
 
 

明智光秀の恐ろしき陰謀を考える

 
情報をリークしたのは誰か?これを考えるのに「誰が得をするか」を考えた方がいいかもしれません。
 
信盛が追放された後、畿内はどうなったでしょう?
 
畿内の軍事勢力は明智光秀にそのまま譲渡され、家臣団トップの軍事力を入手しました。
つまり信盛が追放されたことで利益を得たのはただ一人明智光秀です。
 
信盛追放の数ヶ月前、明智光秀は攻め取った丹波・丹後の領地34万石を信長から褒美として譲り受け、さらに畿内の与力も与えられ240万石の大大名になっています。
 
 
しかし畿内を掌握したい光秀にとっては最後に立ちはだかる勢力は佐久間信盛でした。
 
そこで、露骨に動いては光秀の陰謀と疑われ今までの努力が無駄になるため、何とか自然に畿内から退場させて入手したい、そのように謀略を巡らせたのだと思います。
 
筆者が考える光秀の謀略は、「信長の不満に付け込み火に油を注いで怒りに変え抹消する計略」だったのではないかと思います。
 
明智光秀 肖像画

明智光秀(出典:Wikipedia)

 
その光秀の計略についていろいろ想像も入っていますが、以下のように考えます。
 
信長は「石山合戦の5年にわたる無為無策」で時間と労力が無駄に費やされ信盛に不満を抱いていました。光秀は信長から不満を聞く機会があり、その中で蹴落とせるチャンスを見出しました。逆風の信盛を陥れるため、信長を信じ込ませる讒言は光秀には造作もないことです。
 
何故ならば、信長が光秀を寵愛していたからです。『日本史』には「上っ面のいい光秀は信長を瞞着し惑わし、ついにあちこちの領地を得てしまった」と記録されているくらいです。
 
佐久間軍の怠慢の原因は、本人の資質以外に有力な家臣が多くなく信盛に意見できる者がいなかったこと、つまり家臣団が脆弱だと言うことにつながります。
 
家臣団が脆弱で思い当たる情報といえば刈谷の事実です。
 
そこで光秀が「刈谷の地も水野一族を追放し今やほぼ直轄とされているようで、家臣に知行されれば良きも者も出てくるように思いますが、、。」とさりげなく情報をリークします。
 
それを聞いた信長は、刈谷の現状を知って激怒します。さらに山崎の領地とも符合するため正しい情報と確信し、爆発したのではないかと考えます。
 
よって、「折檻状」では、「石山本願寺攻めの怠慢」と「武将としての資質と性格の欠落」、「知行地の私物化」について感情的に書き並べ怒りを爆発させました。とは言え長年重臣として働いてきた信盛は特別な存在です。追放ありきではなく再度奮起し織田軍として働く道を示しています。
 
いずれにしても光秀はごく自然に疑いがかからないよう信盛を退去されることに成功しました。光秀は一から信盛追放を画策した訳ではなく、信長の不満にうまく乗じて信盛を陥れました。
 
気をつけなければいけない点は、「誰かの讒言があった」という「誰か」は明智光秀以外でも考えられるということです。
 
ただ、筆者はその後得をした武将を考えても光秀しか思い当たりません笑
 
さらに光秀の執拗な性格を示す事例かもしれませんが、念には念を入れ、同時に3人の武将が追放の憂き目に遭ったと考えます。
 

信盛と同時に追放された武将たち

 
1580年8月、佐久間信盛のほか、林貞通、安藤守就、丹羽氏勝も追放されました。
 
貞通は直前まで重用されていた武将で、追放理由は24年前の謀反(信行擁立)です。他の2人も過去に野心を抱いたことがある、という理由です。信長の冷酷さを物語る事件だ、とも言われますが筆者には理由がこじつけ過ぎて追放が前提となった事件だと思えます。
 
同時に起きた追放劇は、内向きには「怠慢や私欲を肥やすこと、野心を抱くこと」などを戒め、外向けには「天下に規律や正義を重んじる織田軍団」をPRすることが目的だっと思われますが、それは表面上のことで、裏は光秀のカモフラージュではないかと思います。
 
信盛の追放で得するのは光秀だけです。流石に信盛だけだと結果が露骨過ぎて陰謀が疑われます。
 
そのため信長に進言し「家臣団を戒めるため、天下に信長様の威光を示すため、とおっしゃるのであればより皆が畏怖するような処置が効果的かもしれません」と言ったのかもしれません。
 
信長は特に畿内において、手懐けても裏切られる経験を重ねています。松永久秀、荒木村重、足利義昭、三好義継などがそうですが、今の家臣にも今後家臣になる者にも畏敬するほどの見せしめをしておく必要があったのは確かでしょう。
 
 
光秀の進言は正論で的確であり信長を喜ばせるものでした。そして信長が自発的に「見せしめのための武将」を選んでまとめて追放しました。
 
これらからも信盛追放は信長の自発的行動で、光秀は讒言めいた雰囲気すら感じさせない謀略であったと考えます。
 
以上が、狡猾に信長に取り入り、裏切りや密会を好み、謀略や計略に長け、涙ながらの演技で信じ込ませ、その上執着心が強い」と評される明智光秀の「佐久間信盛追放の陰謀」でした。
 
 

「折檻状」撤回!?光秀の陰謀バレて本能寺の変に至る?

 
そして、最後に本能寺の変に至る「光秀の動機」と「信長の態度の変化」に触れてみたいと思います。
 
筆者は、「本能寺の変」の動機は「光秀野望説」だと思っています。
 
では、いつから信長を倒して天下を取ろうと考えていたのか?
 
このヒントが「折檻状」に見られます。
 
まず、「折檻状」が出された後に信長が取った行動を見てみましょう。
 
『寛政重修諸家譜』に重大な記述があります。
信盛死するののち、右府(信長)其咎なきことを知て後悔し、正勝(信栄)をゆるして城介信忠に附屬せしむ。
1582年1月に信盛は隠遁した高野山で亡くなります。信長は「咎なきことを知って」子の信栄を帰参させました。
 
「19カ条の折檻状」の撤回です!
 
しかも「咎なきこと」が判明したためです。
 
折檻状の19条の内容が誤っていたわけですね!信盛親子は、実は本願寺攻めの期間武士らしい働きをしていた、実は武士の心得があり皆から慕われ性格が素晴らしかった、実は刈谷の情報が誤っていたなどでしょうか?
 
もし最後の「刈谷の情報」だとすると光秀がリークした情報が誤っていたことになります。光秀の情報を根拠に追放した信長は面目を損なう事態に陥ります。そして光秀の陰謀は信長に露見し窮地に陥ることになります。(ちょっとややこしいですが、信盛の讒言で水野元信が処断された部分ではなく、私利私欲を肥していたという部分が相当します。ちなみに水野氏は信盛追放後に信長が復帰させています。)
 
こう考えると、刈谷の件は「信盛の讒言」と「光秀の讒言」が重なっており信長は2人に騙されたことになります。
 
信長がこの件で光秀に距離を取り始めたとすると時系列的に納得がいきます!
 
(刈谷の情報が誤り(讒言)が露見!信長激怒!光秀窮地)
 
1月信栄帰参
 
1月、信長が長曽我部攻めを強行。取次役の光秀は面目を失う
 
4月、諏訪で折檻される(逸話の説あり)
 
5月、家康饗応役に任命されるも、信長と口論になり足蹴りにされる
 
5月、任務を解かれ、秀吉の援軍に付けられる(秀吉は長曽我部討伐側で光秀とは対立軸にあった)
 
6月、本能寺において信長に謀反を起こす
 
1月以降、急に厳しい対応に変わっています。信長からすると、「自分を利用し信盛を陥れるとは何と強欲なやつか、少しその鼻をくじいてやろう。」という気持ちだったかもしれません。
 
このことから、「咎なきこと」の「咎」は光秀が作り上げた謀略だと信長が気付いたとしたら、それが明智光秀破滅の第一歩になってしまったと言えるのではないでしょうか。
 

最後に

 
「佐久間信盛の折檻状」について「誰かの讒言」を紹介しました。
 
「誰か」とは、明智光秀だと推測し、その根拠を折檻状に求めて紹介しました。
 
信盛以外の追放者についても光秀の陰謀ではないかと推測。
 
光秀は、用意周到に、そして決して目立たぬよう、あくまでも信長が怒って追放したように作り上げた追放事件でした。
 
成功したおかげで信盛の畿内方面軍は光秀の手に落ちました。
 
しかし最後は、刈谷の情報の誤りが露見。光秀の讒言がばれてしまい信長に厳しく当たられるようになり、本能寺の変へと繋がっていきました。
 
以上、前半から続きましたが、「佐久間信盛の折檻状について」と「明智光秀の陰謀を推測」を紹介しました。
 
筆者が根拠としていた「光秀の性格」については以下を参照ください。
 
また佐久間信盛の追放とともに「荒木村重の謀反」も光秀の陰謀ではないかと考えています。そちらについては以下を参照ください。
 
 
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