荒木村重の謀反の理由?謀略家明智光秀の暗躍を考える
2023/03/25
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戦国武将の『荒木村重』。
織田信長に従い、厚い寵愛を受けを受けた外様大名です。
しかし彼もまた明智光秀同様に謀反を起こした家臣の一人です。
ここでは、「荒木村重の略歴」と、「謀反を起こした経緯と理由」を紹介します!
また、筆者の推測「明智光秀の陰謀」についても考えてみたいと思います。
目次
『荒木村重』の略歴
まずは、荒木村重の経歴を見てみましょう!
元は摂津国(大阪府・兵庫県)池田勝正の家臣
池田家の娘を娶り一族に並ぶ
池田勝正は、和田惟政や伊丹親興らとともに摂津国の守護職を務める(義昭上洛後、信長・義昭の命による)
1570年、荒木村重と池田勝正の嫡男が謀反、主家を乗っ取る(下克上)。(三好三人衆の調略による)
村重は摂津守護の一人和田惟政を討ち取る。
その直後、信長による停戦があり、村重は信長に謁見。
そこで、大いに気に入られ、そのまま信長の家臣となる。
信長に敵対した足利義昭と対峙、伊丹親興を討ち取り摂津一国を掌握。
その領地37万石を与えられる。
新たに有岡城も築き摂津国の統治を進める。
信長の寵愛と信頼を受ける村重は、越前一向一揆や石山合戦(本願寺勢力)、紀州征伐などでも活躍。
実績を上げ明智光秀らと並ぶ有力家臣に成長。
1578年、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の三木合戦(兵庫県)従軍した折、突如謀反を起こす。
信長は驚き、再三翻意を促すも、村重は拒絶。戦争となる。
1年間籠城して粘るも家臣の離反で窮地に陥る。
1579年、単独で城から脱出。有岡城は落城し、一族・家臣・妻子ら670名が処刑される。
1580年、花隈城の戦いで敗れ、尾道へ逃亡。大名荒木家は滅亡。
それ以降〜
信長の死去後、摂津に戻り茶人となる。
しかし豊臣秀吉の反感を買ったため処刑を恐れて剃髪し、「道糞」と名乗り出家。
1586年、堺で死去(享年52歳)
以上が荒木村重の略歴です。
問題は、厚い寵愛と信頼を受け有力家臣になったのに「なぜ謀反を起こしたのか?」と言うことです!
1578年の詳細について
と、その前に謀反を起こした時点の動向を詳しく紹介しておこうと思います。
1578年、突如戦線離脱し有岡城に帰還。
信長はこれに驚き明智光秀・松井友閑・万見重元を糾問の使者に立てる。
村重は、説得に応じ母親を人質として信長のいる安土城へ釈明に向かう。
道中、茨木城(大阪府)で家臣(中川清秀と言われる)から説得されまた引き返す。
「安土城に行くのはもってのほか。切腹させられるより一戦交えるべし」と進言があった。
荒木村次の妻(光秀の娘)を離縁、光秀の元へ返す。
2回目の糾問(光秀・秀吉・友閑)。野心はないと伝えるが人質を拒否ししたため決裂。
3回目の糾問(秀吉家臣黒田官兵衛)。幽閉され交渉決裂。戦争になる。
この辺りの経緯は後述する筆者の推論でポイントとなるところでしたので、詳しく紹介しました。
引き返した理由は他に「村重の家臣が信長に従うなら他を領主として仰ぐ」と言ったためともされています。
ちなみに、決裂後の戦争と戦後についてはこちら↓
抵抗するも、重臣の高山右近と中川清秀が織田に寝返り形勢は一気に不利となる。
当初1万5千人いた兵が5千程度に減り、当てにしていた毛利家の援軍も来ず、兵糧も尽きる。
村重は家臣たちに「ここは一戦を交えて退却しよう。失敗したら尼崎城と花隈城を明け渡し助命願おう。」と提案。
しかし。1579年9月に数名の部下を連れ単身で城を抜け出し尼崎城に逃れる。
織田軍にその情報が漏洩し有岡城はあっという間に攻められ開城を迫られる。
信長は降伏条件として有岡城にいる村重の妻だしを始め数百名の家臣や家族を人質として「尼崎城と花隈城を明け渡すなら助命する」と提案するも尼崎城に逃れた村重は拒否。
これにより人質なんと670名が磔や市中引き回し、焼き殺しなどの見せしめになった。
村重が謀反を起こした理由は?
では改めて。
なぜ熱い寵愛を受けていた村重は突然「謀反を起こした」のでしょうか?
その理由はいくつか考えられています。
1、家臣の中川清秀が敵の石山本願寺に兵糧を横流ししており露見する前に先手を打った
2、織田政権の統治に反発する家臣、または摂津国国人衆や百姓たちに押され担がれたため
3、信長から活躍できる場が与えられなくなり将来を案じたため
4、山陽道に抜ける摂津国を抑えており敵対勢力と共謀し信長を討てる絶好の機会だったため
5、村重と親交の深い神吉貞光が再び敵方に寝返ったため内通を疑われた
6、信長の側近によるいじめ(対立)
などです。
いろいろな説がありますが確実な理由は不明です。
いずれにしても、村重は「信長に立て付くつもりはない」と「謀反の意思」を否定しています。
しかし謀反を起こさざるを得ない状況になった経緯があります。
ここで視点を変えて、織田家臣団の中に信長に寵愛されて勢力を増大していく村重を快く思わないものがいたとして考えてみたいと思います。
実際に細川藤孝は村重の出世が気に入っておらず、信長に「荒木村重に叛意あり」と書面を送っています。
村重の弱点を握って情報を操れば、「謀反」に誘導できてしまいます。
そのようなことについて、以下から筆者の推測ですが紹介したいと思います。
明智光秀との共通点と陰謀
気になる点があります。
それは荒木村重の謀反から4年後、同様に信長に謀反を起こした明智光秀の存在です。
光秀は信長の命令で何度も村重の翻意を促す使者に立っていますが、筆者は光秀の性格から荒木村重が謀反を起こす要因になっているのではないかと思います。
荒木村重は明智光秀と2つの関係があります。
・姻戚関係
・織田家家臣の共通点
姻戚関係では、明智光秀の長女倫子と荒木村重の子村次が結婚していることです。それもあって光秀が村重説得の使者に向けられたと言われています。それだけ普段から自然な交流のチャンスがあります。
もう1つは、お互い有力な外様家臣だったという共通点です。信長からの厚い寵愛を受けながら武功を重ね著しく勢力を伸ばしていた点が共通します。同じような家臣に松永久秀もいます。(松永久秀についてはこちらを参照ください)
このような環境で、村重を蹴落とすチャンスを窺っていたのではないか?と考えます。
なぜ光秀が村重を蹴落とす必要があったのか?については以下で紹介します。
ライバルは排除する
ここに逸話レベルですが「村重謀反の原因は明智光秀が作った」という説があります。
摂津の有力勢力である村重が「明智光秀にとって信長を討ち滅ぼす邪魔になる」というものです。
光秀に「信長を討つ」意思があることが前提ですが、1578年辺りに殺害する意思があったかどうかは不明です。
それよりも、織田家トップの支配力を入手することが目的で、そのための畿内支配に村重が邪魔だったからではないかと思います。
「そんなに野心家?」と思われるかもしれません。
実は、明智光秀の性格を見ていると謀略を好む人物だと言うことがわかります。
以下にルイス・フロイス の『日本史』から一部意訳・抜粋します。
「光秀は人を欺くための72の方法を会得している、と周りに吹聴してた」
「光秀の性格は狡猾で裏切りや密会を好み」
「戦においても謀略や調略の達人で執着心が強く、信長に取り入ることは天才」
「信長は光秀に乗せられ多くの領地を与えてしまった」
このような性格と前述した蹴落とすチャンスを踏まえて、以下に光秀謀略の根拠をまとめたいと思います。
・光秀が畿内を掌握するには、摂津を統治する村重が邪魔になった(光秀に並ぶ勢力を持つため危険視)
・「村重謀反」と流言するにはネタが多く(上記「謀反の理由」参照)、絶好のタイミングがやって来た
・1576年、荒木村重の同族、波多野秀治が八上城で光秀に謀反。これも影響あった?
・謀反の際、姻戚関係にある自分が使者に立つことから、村重を謀略する機会が多い
弄せず利を得る、謀略家「明智光秀」
以上から「村重を追い落とす謀略」を始めます。
まずは流言。
「村重に叛意あり」と流言する絶好のタイミングです。「本願寺への兵糧横流しの事実」や「本願寺、毛利氏、別所氏など気脈を通じて優遇した出来事」などと流布させれば、庶民にまでたやすく浸透したと思われます。村重は外様であり荒木家を守る必要があり、そのため信長に属しつつもあらゆるチャンネルを持っておくことも必要だったと思いますが、そこが弱点にもなったと思われます。
次に調略。
村重が戦線離脱し有岡城に帰還した直接の理由は不明ですが、信長の糾問に「謀反の意思はない」ことを釈明に安土城に行こうとしているくらいなので計画的な謀反ではなかったのではないかと考えます。
しかし、釈明に向かう途中に中川清秀(?)から「釈明に行ったら殺されてしまう、戻って一戦交えるしかない」と説得され引き返してしまうのですが、、
ここに明智光秀の差し金があったのではないかと考えます。
中川清秀が横流しの張本人だったとしたら清秀本人は切腹などの罰を受ける可能性があり、それを恐れて村重に進言したのではないかと思います。
また、「兵糧横流し」の件ではなく反信長勢力との関係を暴露されたとしても同様です。
反信長勢力との関係がバレていたとなると清秀は命と延命を天秤にかけて、村重を説得し有岡城に引き返させようとしたのだと思います。
そして引き返すことで同時に「村重は叛意あり」と表明することにもなります。どちらに転んでも万事休すです。
その瞬間、「荒木村重が織田家から脱落」というストーリーが光秀に描かれていたのではないでしょうか。
その後は光秀にとって村重が抵抗しようが投降しようがどちらでも構いません。既に脱落した村重が自分に勝つことはないからです。
ただ嫁いでいる長女倫子は返してもらわないといけません。
そのために使者として村重に直接何度か会っており、倫子は離別しきちんと光秀の元に戻っています。村重からの提案かもしれませんし、そうでなくとも得意の説得や演技で何とでもなったのではないでしょうか。
(明智光秀の子供たちについてはこちらを参照ください)
光秀としては軽く背中を押した、だけです。
時期を見据え少ない労力で利を得るという完全な謀略を成功させました。
以上が筆者の考える「荒木村重の謀反」です。光秀にとって家臣団トップの実力を手にするためには、畿内を手中に治める必要があり、その通過点で邪魔な勢力があれば排除するだけの話です。
村重謀反は、誰が得をしたのか?
結果的に誰が得をしたのでしょうか。
1579年、荒木村重は逃走し、妻だしをはじめ家臣やその家族ら670名は処刑されました。織田家を見ては荒木氏を滅亡させた池田恒興が摂津国領主になりましたがそれ以外では誰も得をしないどころか「黒田官兵衛」幽閉されて足が不自由になってしまいました。
ただ唯一大きく勢力を伸ばした武将がいます。
それが明智光秀です。
光秀が丹波丹後国を平定し、摂津も落ち着いた1580年、信長から山城・丹波・滋賀郡(近江国)を与えられ、さらに与力として池田恒興・中川清秀・高山右近(摂津国)、長岡藤孝(丹後)、筒井順慶(大和国)を従えることになり畿内に240万石を有する大大名となりました。歴史家の高柳光寿氏は関東管領に準えて「近畿管領」と名付けてらっしゃいます。
もし荒木村重が謀反を起こさず信長に従っていたら、摂津国を中心に畿内に勢力を拡大していたかもしれませんし光秀の領地や与力になった武将も奪われていたかもしれません。
また、余談ですが同年、石山本願寺の軍事指揮官で畿内で最大の軍事力を持っていた重臣「佐久間信盛」は突如信長に追放され、その軍事力は全て光秀の手中に治ります。
筆者はこの件に関しても光秀が関与していたのではないかと推測しています。
それについてはこちらでまとめております。
以上、荒木村重の略歴、謀反の概要、また明智光秀の陰謀について推測してみました。
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また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
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