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本能寺の変に「6つの新説」浮上!明智光秀の行動に真実は見つかるか?

2023/03/25
 
新説本能寺の変とは?
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大河ドラマ『麒麟がくる』が終盤に差し掛かろうとする2021年1月4日。
 
朝日新聞の一面に「本能寺の変」に関する新説が上がりました!
 
ドラマでもまさに本能寺の変を迎えるこのタイミング、真実を求めて反響も大きいはず!
 
こちらではその新説について紹介したいと思います。
 
また今まで語られてきた本能寺の変も紹介し、どのポイントが新しいのか?についても解説します!
 
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新説「本能寺の変」とはどんなニュース?

江戸時代前期、加賀藩の兵学者関谷政春が書いた『乙夜之書物(いつやのかきもの)』に本能寺の変について触れられた内容があり、それがこのほど解読されたというニュースです。
 
『乙夜之書物』は本能寺の変から87年後にまとめられた文書で、本能寺の変に実際に参加した武将斎藤利宗(斎藤利三の三男、当時16歳)が、甥の加賀藩士井上清左衛門に語った内容として収録されています。
 
これは門外不出の文書で後世において加筆されていない点で信憑性が高いと期待されています。
 
なお、当時の武将が語った内容をまとめた史料としては後述する『川角太閤記』も存在します。
 

「本能寺の変」の真実?浮上した6つの新説

今回解読された内容から6つの新説が挙がりました。以下で紹介します。
 
1、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」
明智光秀は本能寺から8㎞南の鳥羽で待機しており、斎藤利三・明智秀満の2000騎が本能寺に討ち入ったという新説。
 
今まで議論があったものの、小説やドラマでは光秀自身が本能寺を囲んだ描写がよく描かれました。
 
これが覆るかもしれないのは衝撃的です。
 
2、6月1日の昼に「本能寺討ち入り」を打ち明ける
斎藤利三が6月1日のお昼に亀山城を訪れ、その際に光秀から「本能寺討ち入り」を打ち明けられたと記載されています。
 
光秀が重臣に「信長を討って自ら天下の主人になる」と打ち明けた日時や場所には諸説あるため真実であればこれも衝撃的です(後述)。
 
明智光秀 肖像画

明智光秀(出典:Wikipedia)

 
3、明智軍が亀山城を出発したのは6月1日の夕方
これも諸説あるため有力な情報になりそうです。
 
4、兵たちが本能寺に向かうことを知ったのは深夜桂川
兵たちは中国攻めと思い込んでいました。実はこれから本能寺に向かうと知らされたのが、真夜中に休憩した桂川の河原だったと記載されています。異なる説もあるため真実であれば重要な情報です。
 
5、光秀の軍勢を見つけた第一発見者は召使
本能寺で明智軍の襲撃を最初に発見したのは、「水を汲みに外に出てきた召使」とあり、信長の様子は「乱れ髪で白い帷子姿」と記載があります。
 
6、畳を立て上げて女房を逃す
これは斎藤利宗ではなく逃げ延びた女房から聞いた話ですが、信長は畳を上げて四方に立て、4、5人の女房に「いずれも出よ、出よ」といって退出を命じたと書かれています。
 
畳を立てかけた話は『忠興公譜』にも記載があるようです。
 
以上の6点が『乙夜之書物』に記述のある新説です(参考:2020年1月4日朝日新聞朝刊より)。
 
それでは、以下から今まで語られてきた「本能寺の変」と比較していきたいと思います。
 

今までの「本能寺の変」とは?

まずは、一般的に語られてきた本能寺の変を紹介します。
 
本能寺の変は1582年に起こりました。
 
織田信長の重臣明智光秀が突如謀反を起こし、本能寺に滞在していた信長を殺害した事件です。
 
これまでに『信長公記』や『川角太閤記』、『信長記』、『当代記』などで語られる経緯は以下です。
 
【 経緯 】
5月15日〜17日
光秀、安土城にて徳川家康を饗応する
 
5月17日
急遽信長が光秀に中国攻めの援軍を命令。光秀坂本城に帰る。
 
5月21日
信忠(信長嫡男)が上洛し妙覚寺に入る。
 
5月26日
光秀、中国攻めの準備を終え坂本城から丹波亀山城に入る(この辺りから殺害を考え始めたか??)
 
5月27日
光秀、愛宕権現に参拝。おみくじを2、3度引く。西の坊に宿泊。
 
5月28日
光秀、連歌会を開く(愛宕百韻)。亀山城に帰る(一泊したとも?)。
 
5月29日
信長、安土城を出て30名程度の小姓を伴い本能寺に入る
 
光秀、中国出陣の先ぶれとして弾薬・長持などの荷物100個を西国に輸送。
 
ー陰陽暦上5月30・31日は存在しないー
 
6月1日
信長本能寺で茶会と酒宴を催す。深夜に就寝。
 
お茶
 
6月1日〜2日明朝 
★史料により謀反決断の場所・時間が異なっているため個別に紹介
 
『川角太閤記』
光秀13,000の手勢で亀山城を出陣。
 
斎藤利三に命じて午後6時亀山の東「柴野」に着陣。
 
光秀はそこから150mほど離れた場所で重臣(明智忠光・明智秀満・藤田伝吾・斎藤利三・溝尾茂朝)を集め、恨みを晴らすため信長を討つことを打ち明ける。
 
秀満をはじめ皆が賛同し翌朝8時までには仕留めることを計画。
 
重臣以外には京都〜摂津のルートを通ることを伝え老ノ山まで進軍。
 
沓掛で休息の後、桂川に到着。討ち入り直前準備と触れを出す。
 
触れには「今日より天下の主人になられる」ことと「出世は手柄次第ゆえ勇み喜べ」と書かれていた。
 
先鋒の斎藤利三が市中に入り各隊に向けて、月の光で見える本能寺の森やさいかちの木、竹林を目印に進軍するよう下知する。
 
『祖父物語』によると包囲した数は約3000騎。
 
『信長公記』
光秀、夜に亀山城で重臣(明智忠光・明智秀満・藤田伝吾・斎藤利三)らに信長を討ち天下の主になることを打ち明け協議・決定。
 
重臣以外には亀山〜摂津ではなく亀山〜京都〜摂津のルートを通ることを伝え夜のうちに京都老ノ山に到着。
 
重臣らに先手を申し付け京都市内に軍を進め桂川を渡り、明け方本能寺を包囲。
 
五方より乱れ入る。
 
6月2日明朝『信長公記』
鬨の声が上がり鉄砲が撃ち込まれる。
 
信長が「これは謀反か。誰の企てか」と調べさせると森蘭丸から「明智の者」と報告がある。
 
「是非に及ばず」と言い、自らも弓や槍で応戦した。
 
小姓らは尽く討死し信長も肘に槍傷を負い退いた。
 
付き従っていた女房衆には「苦しからず、急ぎ罷出よ」と逃げるよう指示した。
 
『当代記』には三度警告したとある。
 
既に火をかけていた御殿は信長の近くまで火が来ていた。
 
信長は奥に籠り、納戸を内側から締め切って切腹した。
 
この討ち入りが終わったのは午前8時頃だった。
 
以上が本能寺の変についての経緯です。もう一つ触れておきたい文書があります。
 

ルイス・フロイス の報告書より抜粋

そのほかイエズス会宛ての年報を書いたルイス・フロイス による情報もあります。
 
書物
 
今回の記事に関わるポイントだけ以下に挙げます。
 
5月29日(太陰暦)光秀、信長が少人数で安土城を出た情報を得て、亀山城に重臣を集め「本能寺討ち入り」を明かす。
 
 翌日(6月1日)の夜に本能寺に向け出発。
 
 兵たちに行き先は伝えられず「密かに家康を討つのでは」と憶測が飛ぶも、そのまま本能寺に討ち入った。
 
・信長は起きて手や顔を洗い拭っていたところ、矢が飛んできて肋骨に刺さった
 
 これを抜くと戟をひっさげて、肘に銃弾を受けるまで奮戦した
 
 また、「辛うじて納戸に籠り切腹した、或いは敵のかけた火の中で焼死した」
 
このように記述されています。
 
以上の内容から、改めて「新説」と比較して本能寺の変の真実に迫ってみたいと思います。
 

比較!!「 新説 × 旧説 」

前述の『6つの新説とは?』に沿ってこれまでの本能寺の変と比較してみたいと思います。
 
 
1、光秀自身は本能寺を攻めたのか?
今までの主な説で、光秀が先陣を切って討ち入ったという説も、どこかで待機していたという説もありませんでした。
 
ですので、光秀が「鳥羽で待機していた」と明確に言及した史料は初で衝撃的です。
 
「斎藤利三・明智秀満の2000騎が本能寺に討ち入った」点から2人の重臣が副将だったと考えられます。
 
また『祖父夜話』には3000騎とありますが、討ち入りの人数もその前後の規模だと推測できます。
 
 
2、実際「討ち入りを打ち明けた」日時と場所とは?
『川角太閤記』では6月1日18時以降「柴野」から約150m離れた場所で、重臣5人に打ち明けています。
 
『信長公記』では6月1日夜亀山城で重臣4人に打ち明けています。
 
『フロイス の報告書』では5月29日亀山城で重臣に打ち明けています。
 
日付や時間や場所や人数がバラバラです。
 
今回の『乙夜之書物』では、6月1日昼に亀山城で斎藤利三が打ち明けられています
 
これが真実であれば情報は統一されます。
 
そして明智秀満はじめ他の重臣たちにはいつ明かされたのか?という事は他の史料に沿って考えるべきか、それとも更なる解読を待つのか?憶測を呼びそうです。
 
続報を待ちたいと思います笑
 
 
3、明智軍が亀山城を出発したのは6月1日の何時ごろ?
『川角太閤記』では夕方以前
 
『信長公記』では「戌の刻(午後8時頃)」※戌の刻=厳密には18:00〜22:00
 
『フロイス の報告書』は
 
夕陽
 
『乙夜之書物』は6月1日の夕方とあるので『川角太閤記』と一致します。
 
『川角太閤記』としては、夕方出発し夕方6時頃に「柴野」に到着と捉えることができ、間で休憩など取っていないと判断できます。
 
 
4、兵たちが本能寺に向かうことを知ったタイミングとは?
『川角太閤記』では深夜桂川において触れが出たことで本能寺討ち入りを知り得ました。
 
しかし『信長公記』や『フロイス の報告書』では兵は最後まで知らされておらず「堺に滞在する徳川家康を暗殺するのか?」と憶測も飛びました。
 
『乙夜之書物』では真夜中に休憩した桂川の河原で伝えられたとありますので、詳細は不明なものの『川角太閤記』と一致します。
 
 
5、光秀の軍勢を見つけた第一発見者は召使い
『フロイス の報告書』には信長が手と顔を洗いに行くと矢が飛んで肋骨に刺さったとあるものの、最初の発見者について言及されていないため、『乙夜之書物』の内容が初めて言及した情報と言えます。
 
 
6、畳を立て上げて女房を逃す
信長が女房を逃した点については『乙夜之書物』を始め『信長公記』や『当代記』、『忠興公譜』に記載があり、畳を立てかけた話は『乙夜之書物』と『忠興公譜』にあります。
 
信長は近習たちが敵を防いでいる間、矢玉を防ぐため畳を立て掛けて女房たちを避難させ、その後に炎上する御殿の奥で自刃したのだろうと思われます。
 
そう考えると、信長は傷を負ったとは言え取り敢えず本能寺から脱出を試みることはできたように思います。
 
しかし奥に入って自刃しました。
 
実は重体で動けなかったのか、それとも天命を悟り武士道を貫ぬこうとしたのか、、。
 

最後に

『乙夜之書物』による本能寺の変の新説を紹介しました。
 
今まで語られてきた本能寺の変において、かなり衝撃的な新説が浮上しました。
 
『乙夜之書物』の本能寺の変についてはまだ解読されていない部分もあるようですので、今後の発表がとても待ち遠しいです。
 
今後、ドラマなどで描かれる本能寺の変に新説が採用されるのも楽しみですね。
 
※ 追記(2021.2.5)
その後、『乙夜之物語』の詳しい内容が判明しましたので以下にまとめました。「前日までの光秀の行動」と「本能寺の変の激闘シーン」についてです。

今回の『麒麟がくる』では、染谷将太さんが、「今まで見たことがない鳥肌が立つような本能寺の変」だとおっしゃっていたので否が応でも期待が高まります。
 
なるほど!生き延びたという可能性を残しましたね!やられた笑(追記:2021.2.5)
生き延びたという伝承はあちこちに残っているみたいですね。
 
■明智光秀が起こした本能寺の変の原因や、光秀の性格についてまとめています。
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