松永久秀爆死は創作!?平蜘蛛と共に爆死した説を考える!
2023/03/25
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今回は「松永久秀の爆死」について紹介したいと思います!
松永久秀は、「戦国時代の三大梟雄」とも言われ、人々を恐怖に陥れた三悪事が有名です。
そして、「茶釜『古天明平蜘蛛』を首にくくりつけて爆死して果てるという壮絶な最後」も有名です。
小説やドラマでもよく描かれます。
しかしこの「爆死」は創作で、実際は「切腹」とも言われています。
松永久秀の最後は「爆死」なのでしょうか?それとも「切腹」なのでしょうか?
また、もし「爆死」が創作であったなら、いつ事実が塗り替えられてしまったのでしょう?
本記事では、この点について史料をもとにしながら調査してみたいと思います!
目次
久秀の最期!「平蜘蛛と共に爆死」とはどんな話?
まずは、松永久秀の最後、「信貴山城の戦い」を簡単に紹介します。
1577年10月、織田信長に謀反を起こした久秀は、信貴山城に立て籠もります。
初めは抵抗しますが2万の軍勢の前に落城寸前。
そこに信長から使者が来ます。
「古天明平蜘蛛を城外に出すのだ」と勧告してきたのです。
松永久秀は、織田信長が再三欲しがったという茶釜「古天明平蜘蛛」(以下平蜘蛛)を所持していました。
久秀は「平蜘蛛も自分の首も信長の前に差し出す気はない」と言って追い返しました!
最後を悟った久秀は、天守に火を付け炎上させ、自分の首には火薬を詰め込んだ平蜘蛛をくくりつけて火をつけ、茶釜もろとも爆死しました。
久秀は死亡し信貴山城は落城。
天下に悪名を轟かせた男は、最後も尋常ではなかったことを伝えたエピソードです。
これが現代に伝わる「松永久秀の爆死」。
久秀爆死説は事実か、それとも創作か
さて、この久秀の爆死は本当にあったのでしょうか?
早速、色々な史料を見ながら真相に迫ってみたいと思います!
まずは、『川角太閤記』(江戸初期の史料)には、以下のように記録されています。
頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり
久秀の首は鉄砲の弾薬で微塵に砕け散ってしまい、平蜘蛛の茶釜と同様だ
とあります。
なるほど上記で紹介した「久秀の爆死」の内容に近いです!
ですが、久秀の爆死は確認できますが、「平蜘蛛と共に爆死」とは書いてありません。
結論から言うと、「平蜘蛛をくくりつけて共に爆死した」という壮絶な最後は創作のようです。
『川角太閤記』が徐々に脚色されて創り上げられたようです。残念!
では『川角太閤記』の内容は事実なのでしょうか?
久秀は「爆死」ではなく「切腹」だった?
『兼見卿記』には以下の記述が見られます。
父切腹自火、悉相果云々
切腹し火を付けて死んだ、とあります。
「爆死」ではなく「切腹」が死因と書いてあります。
『多聞院日記』では以下のように書かれています。
昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了
やはり同じように、切腹して放火して死んだとあります。
こちらでは、「安土城(信長の居城)に4つの首が届けられた」とあり「爆死で首が砕け散った」状態が否定されています(4つの首に松永久秀が含まれていると解釈)。
『川角太閤記』には「爆死」とありますが、史料として信憑性が高い『兼見卿記』や『多聞院日記』には「切腹」とあります。
久秀の死因は「爆死」ではなく「切腹」が濃厚かもしれません。
もう少し見てみましょう!
そもそも「爆発」していない?!
『大かうさまくんきのうち』には以下の記述があります。
天守に火をかけ、平蜘蛛の釜うちくだき、やけ死に候。
平蜘蛛の釜は爆発ではなく打ち砕かれています。
久秀は焼死と書かれています。
「切腹した上で、かけた火で焼け死んだ」可能性がありますが、少なくとも「爆発」はないようです。
つまり、『大かうさまくんきのうち』でも「爆死」はありません。
そもそも「爆発」すらしていないということです。
このように、色々な史料を総合的にみると、久秀の最後は「切腹」が濃厚で、「平蜘蛛と共に爆死」、及び「爆死」はないと考えらそうです。
しかし、「切腹が濃厚」と考えた根拠の「史料」は、そもそも信憑性があるのでしょうか?
少し触れましたが、具体的に以下で史料の信憑性から「松永久秀の死」について考えたいと思います。
史料の信憑性から史実を考える
では、上記で紹介した「史料」を一つずつ解説します!
爆死したと記述された『川角太閤記』
江戸時代初期にまとめられた書物
豊臣秀吉や同時代の武将たちから聞いた話をまとめた逸話集
いろいろな逸話が収録されており、「松永久秀は切腹した」という逸話もあり
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このようなことから、『川角太閤記』は信憑性が高いとは言い切れず、よって爆死も信憑性が低いと考えられています。
切腹したと記述される『兼見卿記』
信長や明智光秀、豊臣秀吉らと親交が深かった公卿・吉田兼見が残した日記
特に畿内の情勢は詳細で重要な史料として扱われています
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同じく切腹と記述される『多聞院日記』
大和国(松永久秀の根拠地)を中心に畿内情勢が書かれた日記
興福寺多聞院の僧によって記録された
1478年〜1618年までの140年間が記録されている
こちらも重要な史料として扱われています
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この2つの「日記」は信憑性が高いとされており、よって「切腹」の可能性が高いと考えられます。
久秀は焼死し爆発がなかった『大かうさまくんきのうち』
太田牛一が残した「軍記物」
豊臣秀吉の一代記を記した
豊臣政権に関する記述は信憑性が高いとは言えない
しかし織田政権時代については史料性が高いと言われている
太田牛一の著名な『信長公記』は信憑性が高いと言われる
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『信長公記』にも「久秀の最期について」以下のように書かれています。
防戦弓折矢尽松永天守に火を懸焼死候
やはり「爆死」も「爆発」もしていません。
以上の「史料」の比較と信憑性を総合的に考えると以下のようになります。
松永久秀は、「天守に火をかけて炎上させ、切腹して果てた」
遺体は「焼死体」で発見され「首は信長のもとに届いた」
というのが史実ではないでしょうか。
胴体は、信長の家臣で久秀の宿敵だった筒井順慶が引き取り達磨寺に埋葬しています(『達磨寺略記』)。
以上が、「松永久秀の爆死」についてでした。
「切腹」が「爆死」に塗り替えられたのはいつ?
さて、「天守に火をかけて切腹」したと結論づけました。
これが「爆死」に塗り替えられたのはいつなのでしょうか?
実は、昭和らしいです!
あまりにも最近で驚きませんか?笑
詳しくみていきましょう。
昭和の歴史研究家や小説家たちの活動によるものだったようで流れは以下です。
1、『川角太閤記』の「頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり」が元ネタ。
2、「切腹」が「自死」という表現になって解釈の幅を広げた。「自死」とは切腹以外に爆死や焼死も含みますね。
3、さらに「古天明平蜘蛛」も盛り込まれ、多様な逸話が出来上がった、ということです。
「平蜘蛛と共に爆死」を唱えた桑田忠親さんはNHK大河ドラマの時代考証なども務めており、全国に「久秀爆死」を広めたひとりと言えます。
研究者の天野忠幸氏によれば、、、
「茶釜と共に爆死」は第二次世界大戦以降に作られた「俗説」と結論づけてられています。
ということで、「爆死」に塗り替えられたのは昭和時代だと言うことが判明しました。
なお、松永久秀は「爆死説」以外でも様々な部分で創作されています。
その結果、「天下の三大梟雄」という悪名高い大名に創り上げられました。
全部が創作とは言いきれませんが、史実を考えるとちょっと可哀想です笑
この点については以下で紹介していますので興味ありましたらご覧ください。
書籍では、天野忠幸氏の著書であるこちらがお薦めです。
『松永久秀 歪められた戦国の“梟雄”の実像』(天野忠幸著)
最後に。平蜘蛛の行方について
最後に、平蜘蛛の行方について。
粉砕していなければ焼け跡から「平蜘蛛」が見つかるのでは?と思いませんか?
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では明確に明智光秀に渡りましたが、史実では行方不明です。
平蜘蛛の行方については以下のような説があります。
多羅尾綱知(若江三人衆)が壊れた平蜘蛛のかけらを拾い集め、修復し茶器として使用した
土の中から発見され信長が愛用した(現在浜名湖舘山寺美術博物館に保存)
久秀が本物の平蜘蛛を忠臣であった柳生石舟斎の叔父に渡していた
これらについてはどれが本当かわかりませんが、とりあえず浜名湖舘山寺美術博物館に足を運んで現物を見てみたいと思いました笑
※久秀の「3大悪事」のひとつ、永禄の変ついては以下で紹介しています。
※永禄の変でショックを受けた人々の行動を紹介しています。
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ブログでは、20年間携わった高校生の進路支援の経験をもとに「専門学校の入試・選び方・学費」などを紹介しています。
また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!