松永久秀が足利義輝を殺害?久秀の難しい立場と義昭に紡ぐ運命。
2023/03/25
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15人の将軍が繋いだ「室町(足利)幕府」は、237年間続き日本政治の中心でした。
しかし内情は波乱に満ちており、盤石な体制とはいえないものでした。
13代将軍足利義輝もまた、不安定な政権基盤の上で生きた人物です。
義輝は、権威回復のため幕府親政を目指しますが、その途上で殺害されてしまいます。
将軍が殺害されるという前代未聞の事件に日本中が震撼しました。
犯人は天下の梟雄「松永久秀」と三好氏です。
こちらでは、「足利義輝殺害の事件」について取り上げたいと思います。
「将軍足利義輝が殺害された当日の状況」、「松永久秀が犯人とされた理由」、「久秀が置かれた難しい立場について」、「救った命が巡って久秀に返った点」などについて迫ってみたいと思います。
目次
足利義輝、松永久秀らに殺害される!
1565年5月19日、足利義輝がいる京都二条御所に、清水寺参詣を名目にしていた三好義継(三好長慶の後継)と松永久通(松永久秀の息子)らの軍勢約1万が押しかけます。
足利義輝に訴状(要求)を求めを取り次ぎを要求しますが、幕臣の進士晴舎が取り次ぐ間に、御所に攻め入ってしまいます。
幕臣達が応戦している中、進士晴舎は御所に侵入させてしまったこと詫びて義輝の前で切腹します。
義輝は覚悟決めて約30名の幕臣と最後の盃を交わした後、討って出ます。
剣豪塚原卜伝に指南を受けた義輝の奮闘は凄まじく、ルイス・フロイス の『日本史』には「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」、太田牛一の『信長公記』では「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と記録されています。
しかし多勢に無勢、最期は疲労し切ったところで薙刀で足元を救われそのまま斬られたとも、四方から畳を盾に塞がれ同時に刺されたとも、或いは自害したとも言われますが、ついに力尽き命を落とします。享年30歳。
この時、義輝の生母慶寿院や側室小侍従局、進士藤延(実は生き延びて明智光秀になったという説がある幕臣)、摂津晴門の嫡男なども亡くなっています。
(※NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では「悪人摂津晴門」を片岡鶴太郎さんが演じられました。摂津晴門についてはこちらを参照ください→『【前編】摂津晴門は何者?『麒麟がくる』で描かれない生涯を徹底調査!』)
これが事件の内容で、「永禄の変」と言われます。
『麒麟がくる』では向井理演じる義輝がオープニングで瞬殺されてしまったことが話題になっていましたね。
さてこの事件、「松永久秀」の息子は登場しますが久秀本人は登場していません。
これから分かるように実は、松永久秀が足利義輝を襲撃したという事実はないのです。
では、なぜ久秀が犯人と言われるのでしょう?
なぜ松永久秀が犯人とされたのか?
結論から言うと、後世「天下の梟雄」らしく主犯の濡れ衣を着せられたと考えられています。悲しいですね、、。
久秀が「梟雄」と言われる根拠として、「足利義輝の殺害」の他に以下の行為があります。
主君三好長慶の中核を担う子息を次々暗殺し三好家を弱体化させ、下克上に成功した
東大寺大仏殿に放火し炎上、大仏の首を焼失させた
支援者或いは君主たる織田信長に対して裏切りと服従を繰り返した
最後は謀反を起こし、信長の要求をはねつけた上、茶器もろとも爆死した
このような非道な行為を繰り返したとされますが、実は根拠が乏しく、後世が作り上げた悪人のイメージと言われます。
詳しくは以下で参照ください。
※久秀が「天下の梟雄」と呼ばれた3つの出来事について
※久秀は本当に「天下の梟雄」なのか?悪人と呼ばれるようになった原因を紹介
実際は三好家に対しては一貫した忠臣であり、また幕府体制も重視した保守派の人物で非常に懐の深い人物でした。
ということで、後世の人々が梟雄たらしめるために、「足利義輝殺害は久秀の犯行」としたわけです。
※「松永久秀の爆死について」はこちらを参照ください→『松永久秀爆死は創作!?平蜘蛛と共に爆死した説を考える!』
松永久秀は殺害に全く関与していない?
では、松永久秀は全くの濡れ衣かと言うと、実はそうでもありません。
直接殺害していないにしても関与はあったと思われます。
久秀は事件当日は大和国におり京都にはおらずアリバイが成立していますが、関与していたと思われる点として以下が挙げられます。
当時三好家家臣として歩調を合わせていた(犯人らの家臣であり重臣)
息子通久が殺害に及んでいる
事件後に批判的な態度をとっていない(許容している)
義輝の異母弟覚慶(後の15代将軍足利義昭)を幽閉した
以上の点から関与してしていたと考えられます。「関与していた」ことが拡大解釈され「主犯」に祭り上げられてしまったのだろうと思います。
三好家家臣・足利義輝家臣の久秀の立場
松永久秀は非常に難しい立場であったとも思います。
それは三好家家臣と足利家幕臣と両方の家臣でありしかも重臣でした。
幕臣としては三好義継と同格に近い御供衆に列せられるまでになり義輝の側近として活躍しており、かたや三好家としては長慶亡き後、不安定になった三好家を追い落とそうと画策する足利勢力から守らないといけない立場でした。
久秀はその間の難しい立場です。
そんな状況のため、この事件で久秀は鳴りを潜めています。
しかし唯一表立って行動したことがあります。
それは義輝の異母弟の周暠を始め足利義輝の血縁者が殺害された中で、覚慶を幽閉して結果的に命を救ったことです。
これは今後の活路を開くための望みとして、将来の将軍として担ぎ上げる必要があり、その一手と言われます。
久秀、足利義輝から義昭の家臣へ
足利義輝が殺害されるまでは幕府の御供衆だった久秀、覚慶を殺害せず幽閉したことは、巡り巡って御供衆として復活する道を切り開きました。その久秀の辿った経緯を紹介します。
<事件から2ヶ月後(1565年7月28日)>
・久秀が覚慶を、近江に滞在する義輝旧幕臣の三淵藤英や細川藤孝、和田惟政らのもとへ逃す。
<同年11月16日〜1567年2月>
・覚慶を逃した責任などから三好三人衆によって失脚させられ、三好家を二分する内戦が始まる
・三好家の大軍に押された久秀は、劣勢のまま諸所の城を奪われ大敗を喫し、行方をくらましてしまう
・三好三人衆は「覚慶」が将軍になってはまずいため対抗馬に「足利義親(後の14代将軍義栄)」を担ぐ
・三好三人衆が義親を尊重し、そもそもの当主義継を軽んじたため、義継は憤慨する
<1567年2月16日〜>
・三好義継が久秀に寝返る。久秀は勢力を巻き返すも劣勢が続く
・東大寺大仏殿の戦いを始め大和国や京都での戦乱が続くが劣勢のまま膠着状態に陥る
・覚慶が越前で還俗し足利義昭となる
・久秀は、覚慶が頼った織田信長と気脈と通じ始める
・足利義親が天皇から「将軍の宣下」を受け14代将軍足利義栄となる(三好三人衆側が一歩リード!)
・義栄は京の戦火や反対勢力の影響で入京できず摂津で滞留
<1568年9月>
・織田信長が足利義昭を奉じて上洛。京都周辺の三好三人衆勢力を一掃する
・久秀は織田軍の支援を受け大和国を平定し国主となる
・将軍足利義栄が病没
<同年10月18日>
・足利義昭が朝廷から正式に「将軍の宣下」を受け15代将軍となる
・久秀は足利家の幕臣となり再び御供衆に任ぜられる
ということで、苦境に立たされた時期もありましたが、救った命が最後は自分に返ってきました!
足利義輝の頃のように再び御供衆として活躍することができました。
めでたしめでたし!
しかしその後、義昭と対立、信長と対立など繰り返し最後は信貴山城で亡くなってしまいます(※松永久秀の経歴はこちらを参照ください)。
まとめ
世間一般に言われる「足利義輝殺害事件(永禄の変)」は松永久秀が起こしたとされますが、実際は違っていました。そこには久秀の難しい立場を見ることもできました。
以下に今回の記事をまとめたいと思います。
・1565年5月19日、三好義継と松永久通が二条御所を襲撃し足利義輝を殺害する
・松永久秀は直接関与していないが、間接的に関与している
・天下の梟雄のイメージから「直接」犯行に及んだと拡大解釈された
・久秀は三好家と足利家幕臣の両方の重臣として活躍していたため難しい立場だった
・事件の際の唯一の行動は、覚慶(後の足利義昭)を殺害せず幽閉したことだった
・覚慶の生命を保証したことが巡り巡って、自身の御供衆復帰につなげることができた
以上がまとめになります。
久秀の嫌疑も晴れましたし、難しい立場だったことも分かりました。
次回はこの事件が世間にどれだけ影響を与えたのかについて紹介したいと思います。
全国を震撼される事件だったんだ、と改めて思わされます!→『「永禄の変」の衝撃!足利義輝を追悼。ー大名は憤慨、庶民はデモを起こすー』
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また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!