斎藤利三とはどんな武将?明智光秀に忠義を尽くした男の人生
2023/03/25
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前半(『斎藤利三はどんな武将?家系図で姻戚関係をチェック!』)では、「斎藤氏」の由来と、斎藤利三の簡単な経歴、斎藤氏系譜から分かる周辺との関係について紹介しました。
こちらでは、斎藤利三の主君を変えながらを詳しく見ていきたいと思います。
利三が明智光秀に仕官した出来事から、明智光秀の家臣引き抜き工作事件、利三の最期などについて紹介します。
目次
斎藤利三の経歴を紹介
「前半」でも紹介しておりましたが改めて、斎藤利三の経歴をざっくり紹介します。
経歴
1534年、美濃国にて誕生
上京する。松山重治に仕える
1556年〜、美濃国主、斎藤義龍・龍興に仕える
1567年、稲葉一鉄(良通)が織田に寝返るとそれに従い稲葉一鉄に仕える
1575年頃、稲葉一鉄と喧嘩。明智光秀の家臣(重臣)となる。『麒麟がくる』ではここから登場!
1579年、明智光秀が丹波を攻略。利三、1万石を与えられ黒井城城主(丹波国)となる。
1582年、本能寺の変。山崎の戦い。敗走し逃れるも発見され斬首。本能寺に晒された(享年49才)。
以上が経歴です。
稲葉一鉄に仕えるまでの利三の動向をチェック!
以下では、松山重治への仕官と斎藤義龍・龍興の仕官について紹介します。
松山重治への仕官
斎藤利三は当初松山重治に仕えました。
松山重治は三好長慶に仕え、2000人の将として松永久秀らと共に政権を支えた人物です。
重治は小鼓や尺八、早歌などの芸能も達者な武将で「堺の名物男」ともてはやされました。
利三はそんな彼のもとで働き、政治や文化など学ぶことが多かったのではないでしょうか。
当時三好長慶は絶大な権力を誇っており、将軍足利義輝を京都から追放することもしばしばでした。
武家の棟梁たる権威「足利幕府」やその権威を凌駕する「戦国大名」など流動する世の中を肌で感じていたのではないかと思います。
斎藤義龍・龍興への仕官
その後、利三は斎藤義龍に仕えました。
義龍が美濃国主になってすぐであれば1556年ということになり、まさに三好氏絶頂期での移籍ということになります。
斎藤道三から義龍に政権が移ったことで故郷の斎藤家に何らかの問題があり戻らざるを得なかったのかもしれませんが、仕官の年が分からないので何とも言えません笑
義龍が急死すると14歳の龍興が家督を継ぎます。
龍興は斎藤家の支柱ともいうべき西美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家元直(卜全)・安藤守就)を遠ざけて、一部の側近のみを寵愛したため政治が機能不全に陥ります。
安藤守就・竹中重治などがクーデターを起こして諫言しますが、結局1567年8月、西美濃三人種は三人衆は揃って龍興の元を去ります。
その時に斎藤利三もそれに従って退去し稲葉一鉄の家臣となりました。
同月、信長によって稲葉山城が落ちて龍興は逃亡しました。
稲葉一鉄と喧嘩し出奔する
利三は稲葉一鉄の家臣となって働きますが、やがて喧嘩別れをして去り、明智光秀に家臣、しかも重臣として迎えられます。
『麒麟がくる』ではここから描かれました。
稲葉一鉄の元を去った時期は、諸説ありますが1575年前後ではないかと考えます。
というのも、1570年はまだ一鉄の家臣として戦をしています(金ヶ崎の戦い)し、1579年には明智光秀の家臣として丹波国黒井城が与えられているからです。
『麒麟がくる』も同様のタイミングでの登場でした。
さて、一鉄と利三が喧嘩別れしています。その理由は何でしょうか?
斎藤利三は、一鉄の頑固さに耐えられなかった?
これは推測になりますが考えてみたいと思います。
まず稲葉一鉄は「頑固一徹」の由来ともなっているくらい「頑固者」だったようです。
信長に対しても「我が道をゆく」振る舞いをして叱られたり、信長亡き後の美濃国主織田信孝やその後任の池田恒興に対しても従属せず独立を保ちました。
「頑固さ」が災いして喧嘩に至ったのでしょう。
利三は例えるなら、社長に辞表叩きけて転職するような行為です。
激昂的なタイプなのか、我慢の限界が超えたのか。
一つポイントなのが、前半で紹介しましたが利三にとって一鉄は舅です。
一鉄が舅の立場を利用して高圧的な態度や小間使いのように扱ったのかもしれません。
『麒麟がくる』では「横暴な一鉄から逃げてくる」となっています。
もう一つ考えられるのが自作自演です。
これは以下で紹介します。
明智光秀の引き抜き工作?
明智光秀にとって利三が逃れてきたことは、その後利三を重臣に列したことから考えても内心喜んだのではないでしょうか?
一方で、光秀がヘッドハンティングをしたのではないか?とも言われています。
そうだとすると、光秀と利三は事前に相談しており、喧嘩は演技だった可能性もあります。
実際に、「ヘッドハンティングだった」という説もあります。それについての記録を以下に紹介します。
「稲葉一鉄の家臣、那波直治が明智光秀に仕えた。これに一鉄は激怒し、先の斎藤利三に続き那波直治まで引き抜かれたことを信長に訴え出た。信長は直治を一鉄に返し、利三は切腹するよう命じる。信長の近習がなだめたため利三の切腹は免れる。しかし光秀は信長に呼び出され不正を厳しく責められた上、2,3回頭を殴られて付け髪が落ちた。これを光秀は深く憎んだ。」(『稲葉家譜』を意訳。『明智軍記』、『絵本太閤記』にも似た記述がある)
とあります。時期は本能寺の変直前の1582年のことです。
利三は光秀の引き抜き工作だったこと、稲葉家退去は利三を切腹させるだけの非があったこと、光秀が本能寺の変を起こす動機に繋がることがうかがえる内容です。
「貴重な史料!」と思いましたが、残念ながらこの内容は史実とは言えないようです。
これらの書物は物語や絵本などに載っている内容で、史料としては信憑性に乏しいためです。
史実としては堀秀政が出した書簡に「1582年5月27日、那波直治の稲葉家帰参を信長が認めた」とあり訴訟はあったもののこれ以上でもこれ以下でもないと言うところのようです。
ということで光秀によるヘッドハンティングとは言えないようです。よって利三の喧嘩の演技もないでしょう。
ただ筆者はルイスフロイス の『日本史』に記録される光秀の性格を考慮すると、「引き抜き工作」は全くないとは言えないと思っています。
明智光秀の性格についてはこちらを参照ください。
出奔先が他家ではなく明智家だった理由
稲葉一鉄の元を去った利三は、なぜ明智家を頼ったのでしょうか?
これについては前半で詳細を述べていますが、土岐明智氏と美濃斎藤氏は姻戚関係で縁が深いこと、またお互い幕府の奉公衆だったこと、兄が先に光秀の家臣になったと思われることなどが理由と考えます。
斎藤家と土岐家の家系図は前半で紹介しておりますのでそちらでチェックしてみてください!
黒井城城主と「福」出産
明智光秀は1575年から畿内政治にとって重要な丹波国の制圧に着手します。
当時丹波国は自勢力を守るため新興勢力の信長と同調したり敵対したりする国人衆が乱立していました。
紆余曲折あるも最終的に赤井氏や波多野氏を征伐して「丹波国・丹後国」を1579年に平定します。
(※光秀の「丹波攻略」の概要は、地図など使ってこちらで紹介しております。)
この結果に信長はとても喜んだようで、『佐久間信盛の折檻状』でも「光秀の働きは天下の面目を施した」と書いてます。
(「佐久間信盛の折檻状」はこちらで紹介しています!)
そして福知山城を明智秀満に、黒井城を斎藤利三に与えます。
明智家の筆頭家老2名がそれぞれ入城し治めることになったのです。
利三は1万石を与えられています。
名実ともに筆頭家老ですね。
そしてここで「安」(稲葉一鉄の娘)との間に娘「福」をもうけます。
後の春日局になる女性です(春日局は徳川家光の乳母になり江戸幕府で権勢を振るった人物)
※川越喜多院には江戸城にあった「春日局化粧の間」と「家光誕生の間」が移築され、現存しています。
長曽我部家と斉藤家と「本能寺の変四国説」
前半の家系図を参照すると、石谷光政の娘が長曽我部元親の正室、石谷頼辰の娘が長曽我部信親の正室になっています。
また石谷光政自身も「永禄の変」後、落ち延びて元親に仕え、斎藤家の姻戚の蜷川氏も元親に仕えました。
彼らと姻戚の斎藤家・明智家も共に長曽我部氏と縁が深かったのです。
そのような事情からか、信長の命令で光秀は長曽我部元親の蹂躙作戦を始めます。
利三の妹を元親に嫁がせて姻戚関係を結びます(正室は利三の姻戚の石谷光政の娘で別人)。
しかし長曽我部氏と対立する三好氏が羽柴秀吉と結びつき、信長もこれに同調。
蹂躙作戦が突然長曽我部征伐に方針転換したため光秀は面目丸潰れになってしまいます。
1580年1月には土佐1国と南阿波2郡以外返上して従うようにという信長の命令があり、利三も元親に説得しに行っていますが拒絶されています。
そして長曽我部征伐に織田家の大軍が出発しようとした時に、光秀や利三らが本能寺を襲って信長を殺害してしまいます。
本能寺の変の動機について、「明智家が縁深い長曽我部家を救おうとして本能寺の変を起こした」とする「本能寺の変・四国説」はこれにあたります。
ところが、この大軍がやってくる直前、斎藤利三の元に長曽我部元親から信長の命令に従う旨の文書が届いたようです。
これは長曽我部氏の扱いを巡る上で終止符となる文書のはずですが、届くのが遅かったのでしょうか?
それとも他が原因だったからでしょうか?本能寺の変は起きてしまいました。
忠義を尽くした「本能寺の変」と「最期」
1582年6月、ついに光秀は本能寺に攻めかかります。
本能寺の変を起こした理由は上記の「四国説」含め50種類以上語られています。
(本能寺の変を起こした理由についてはこちらを参照ください。)
光秀から信長を殺害すると打ち明けられた場に利三もいたわけですが、最初は無謀であり反対したそうです(『備前老人物語』)。これについては諸説あります(新説については記事下リンクから参照ください)。
しかし「今まで光秀から受けた恩をここで返そう」と覚悟したようです。
先鋒は利三が務めました。
そして明朝、信長を襲い殺害します。
信長の遺体は焼け焦げた死体が散乱する中で判別がつかず発見されなかったようです。
そして信長の首がない(=生存の可能性)ために光秀に味方する大名が少なかったとも言われます。
また織田信忠のいた二条城を攻撃している際に、同族で義兄弟と言われる斎藤利治(斎藤道三末子)がいることを知り戦わず降伏を促したとされます。
しかし利治は拒否して奮戦し討ち死しました。
利三は、山崎の戦いでも先鋒を務めて伊勢貞興(摂津晴門失脚後、最後の幕府政所執事を務めた人物)と共に羽柴軍中川清秀と激戦を繰り広げ圧倒しました。(※摂津晴門についてはこちらを参照ください)
しかし、別の場所で羽柴軍の奇襲を受けた隊が混乱したことで総崩れとなり敗れてしまいます。
明智光秀は坂本城に戻る途中で殺され(自刃?)、明智秀満は坂本城で自刃、光秀の嫡男光慶は丹波亀山城で自刃し(諸説あり)、一族や重臣らは尽く自刃もしくは殺されました。
その中で利三は逃げ延びていましたが3日後に近江国堅田で梅雨時の暑さから病になり衰弱していたところを発見され捕らえられてしまいます。
そして6月18日、市中引き回しの上、六条河原で斬首。その後、胴体を繋がれて光秀と共に粟田口に晒されました。
享年49歳。
なお、同じく光秀に仕えていた兄石谷頼辰は長曽我部元親の元に逃れました。
実は明智光秀は死んでおらず落ち延びたという説があります。
最後に
以上が斎藤利三の辿った人生です。
利三は稲葉一鉄から明智光秀に鞍替えして生き方が安定したのではないでしょうか。
最期は光秀の思いに運命を共にすることになりましたが、それも今までの恩義を返すための決断でした。
そこには美濃斎藤氏と土岐明智氏との深い繋がりもあり、もちろん光秀に強い信頼を置いていたこともあったでしょう。
因みに利三の父利賢は1586年まで生きていることから、複雑な思いで息子の死を悼んだのかもしれません。
稲葉一鉄は本能寺の変直後から、美濃国の領地を巡って美濃の有力武将から織田信孝や池田恒興らまでとも覇権を争っており、豊臣秀吉の元でやっと納得する領地が安堵され1588年、74歳で亡くなっています。
相変わらず一本気な性格が窺えます。
兄の頼辰は父同様に長曾我部元親の家臣となります。
娘は信親(元親嫡男)の正室となります。
重用されていましたが、1587年の戸次川の戦いで仙石久秀の戦略ミスから信親と共に戦死してしまいました。
斎藤利三は『麒麟がくる』でも最後まで活躍しました。亀山城で「本能寺討ち入りの告白」を聞くシーンはしびれました。
その利三の血は「春日局」や、本能寺の変の新説を『乙夜之書物』に伝えた三男「利宗」に継がれていきました。
斎藤利三が活躍した本能寺の変の新説を紹介しています。
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また自身もデザインの専門学校に通学した経験から「40歳を超えて専門学校に通った経験」をまとめています。
そのほか、「旅行」、「鬼滅の刃」、「生活」、「戦国時代の武将や出来事」などについて紹介しています。
モットーはサザエの殻のように、ゆっくりだけど着実に大きくなれるよう人生を歩むことです!